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水雲問答(39) 聖賢と英豪

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答39

水雲問答(39) 聖賢と英豪

雲:
 天下の大政を秉(と)る者は自任致し申候て掛り申さねば成り申さず候。我が力足らざるを知てことを引き、勝手に致し候もよきことながら、大政を秉るに臨(のぞみ)ては、我が出来ぬ迄も、押付け申候才力なくて叶(かな)はざることに存候。器量一杯に做(な)し申候て叶はざる時は、身退くより外之れ無く候間、自任致し申すべくと存候。

(訳)
 天下の大政を執る者は、俺がやるといった自分の力量に自信を持って臨むようでなければ、やり遂げることはできません。
自分の力不足を知ってさっさと仕事から手を引き、勝手気ままに暮らすのも良いですが、大政を執るという場合に臨んでは、自分では出来ないと思った事も引き受けてやり遂げてしまうという才力がなければなりません。
自分の器量いっぱいやりとげて、万一うまく行かぬときに、身を引く(辞任する)までのことです。

水:
 己を量るの論は前郵に論(ろんじ)候やと覚(おぼえ)申候が、今般の高説は平易の道理にて之れ無く候へども、有為の人、亦此志なかるべからざる所にして、面白く承(たてまつり)申候。然(しかれ)ども是等は万世の訓とすべからず候。其人を得て論ず当た(べ)きの説に候。是、聖賢と英豪との別に候。英豪の見は時として用ゆべからず。聖賢の語は何づくに往(ゆく)として用ゆべからざるは無き所の段階に候。

(訳)
 己の力量を測って事に当たるという論については前の手紙で論じたと覚えておりますが、このたびのご高説は、わかりやすい平易な誰にでもわかるという道理ではなく、志の高い人の議論です。またこの志しが無ければ言えない所であり、面白くうかがいました。しかし、これらのことは、だれにでも当てはまるという訓(おしえ)とはなりません。これが聖賢と英豪の別れるところです。英豪の意見は時として用いることが出来ません。しかし聖賢の語はどの時代、場所などに係わらず用いられないことはありません(使われるものです)。


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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/03/25 09:10
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