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水雲問答(47) 我が分を知って、職を越えず

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答47

水雲問答(47) 我が分を知って、職を越えず

雲:
 人は我が分を知て、職を越申さぬこと第一に候。君子とかくに忠過ぎ、身を忘て職を出、成らぬことを無理に為し得んとして、害を受ること多し。是私になるが故に候。故に孔聖は三子の後に従て、敢て職を越たまはず候。聖人たるゆゑと感心致候。

(訳)
 人は自分の身分等の分を知って、その職を越えないようにするのが第一だと思います。君子はとかく忠心過ぎて、出来ない事でも無理に行おうととして失敗する事が多いと思います。これは「私(心)」になるためでしょう。よえに、孔子は夏(か)、殷(いん)、周の3つの王朝のことを勉強して、敢えて与えられている職を越えずにいました。聖人であった所以であると感心いたします。

(コメント)
 孔子は聖人として最も有名ですが、孔子が出てきたときには、乱れた春秋時代の終わり頃で、周王朝の力が衰えてきた時です。しかし、この周王朝もその前の2つの王朝(夏(か)、殷(いん))の長所と短所を学び、取捨選択して、周の高い文化が花開いたのです。このため、孔子は、夏と殷の良いところや悪いところを研究した周のことを学び取って進もうと思ったのです。孔子当時はすでに周の力も衰えていましたが、周が王朝を築いたときには、その前の2つの王朝のよいところや悪いところを素直に認める姿勢があったのです。ですから孔子もそのことを学んでいくことで今の儒教の精神を培ったのだと思われます。
孔子は聖人ですが職業地位としてはけして高くは無かったのです。逆に役職に付かなかったからこそ芸が身についたともいっています。


水:
 是は平らか成る説に候。かの英豪の見にはあらで、聖賢の語に候。然れども今人の柔弱なる者、あしく心得候と引込思案計(ばかり)に成り候弊も出来候。兎角に其人を待て行はるる所専要にて、其人なき時は天下中庸有る故、公といふやうなる人出来申す者に候。

(訳)
 これはごつごつした尖った考えは無く平らかなる説です。いわゆる英豪(英雄、戦国武将など)にみられる見識ではなく、聖賢(学問をした賢い人)を指す言葉です。しかし、昨今の軟弱な者は、悪い心得で、引込み思案(ひっこみじあん)の者ばかりになってしまう弊害も出そうです。とにかくこの議論は、それにふさわしい人を待って行うのが肝要だとおもいます。そのような人がいない場合には孔子が言っているように、天下中庸(正しく変わることのない偏りの無い道理)がありますので、公といえる人がでてくるでしょう。



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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/03/29 04:25
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