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水雲問答(57) 言葉の使い方に王道、覇道がある

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答57

水雲問答(57)  言葉の使い方に王道、覇道がある

雲:
 大小の法、幣必ずあり。姑(しばら)く賞罰を以て鼓舞するも、善者は少く、悪者多し。喩へば、落葉を掃(はら)ふに従つて落つるが如し。実(まこ)とにあきはて為(た)ることに候。唯(ただ)一時一時に清く掃(はらは)んことを思ふべし。俗に云ふ、食の上の蠅(はへ)を逐(おふ)と云ふこと、亦棄つべからず。わるく了簡(れうけん)して、無理に善悪を弁白するときに、却って害甚だしきに至る者に候。

(訳)
 大小に係わらず法というものは、かならず弊害があるものです。賞罰もっていろいろと鼓舞しましても、善者は少なく、悪者は多いものです。たとえば、落葉を掃いても、また落ちて、掃いても掃いてもまた落ちてくる、実にあきれ果ててしまいます。したがって、掃くのもその時その時に清く掃くことしかありません。俗に、食べ物の上の蠅(はえ)を追い払うようにやるということをやっていかねばなりません。悪く考えて、無理に善悪をハッキリさせると、かえって害が多くなってしまうでしょう。

水:
 善少く悪多しの説、妄(みだり)に人に施しがたし。風葉飯蠅(ふうようはんよう)の喩(たとえ)も、悪しく心得たる時は、目前の事のみにして永図(えいと)なき幣を生ずべく候。強て善悪を弁別するも、害あるの説も、一偏に説(とき)がたし。天下のこと了事漢に非ざれば、共に謀るべからず。是等の説皆説き得て着実に過ぎ、不了事の者に示し難き所あり。故に聖人の語平実正大、賢愚みな見聞に従て益あることに候。これ高論を駁(ばく)するに非ず、言語の措き方王覇あるを申候なり。

(訳)
 この善が少なく、悪が多いとする説は、あまりみだりに人に適用してはいけないでしょう。風葉飯蠅(掃いてもはいても落ち葉がと、飯の上の蠅をおう)の喩えも、悪く考えますと、ただ目先のことだけにとらえられ、永遠の計画が忘れられているという弊害があります。強いて善悪を区別すると害があるという説についても、ただ単純に断定できません。天下の事は複雑な問題が含まれていますので、本当に心得た人を相手にしなければなりません。これらの説は、少し立ち入り過ぎており、不了事の者(世間を知らない者)には難しい箇所があります。そのため、聖人の言葉は賢者が聞いても愚者が聞いても、誰に対しても平等に悟る事ができる平実正大な言葉なのです。今言っていることは、貴方の意見に反対するものではなく、言葉の使い方に王道、覇道があるということを申しているのです。


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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/02 12:45
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