水雲問答(60) 大経綸(だいけいりん)
これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。
雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(60) 大経綸(だいけいりん)
雲:
材学究門戸を争(あらそひ)候は申までもなし。王侯大人、政に臨でも門戸の気味合ままこれ有る哉に存候。寛を専(もっぱら)と致し候人は厳を知らず。厳家も亦然り。大小万事一様に致したがり申候は、俗人の情に候。故に大経綸は迚(とて)も出来申さず候。夫(それ)故に大任に当り申候人は、諸事万事残らず我胸中に引受け、才は才にて引立て遣はし、徳は徳にて引立て、勇は勇にて引立て遣はし候はねば、大事業は成がたく候。我一己の智にては、一方の事は出来申ても、八方の事はなし得申さず候。一方に当る才智の人は随分出申すべき、八方に当りて大経綸を致し候者は間気と存申候。韓(かん)魏(ぎ)公経綸を以て人に許さず候は、深意味と存候。
(訳) 材=才
学問や才能を磨き追い求める人達はいつも門戸(学閥)を作って争うことは言うまでもありません。王侯大人(おうこうたいじん=王侯将相 おうこうしょうそう・・・高貴な身分は、才能や努力などできまり、家柄や血統ではないということ)でも、政(まつりごと)を行う場合にも派閥があることはよくある事です。寛容を主に行うと、人は厳しさを知りません。また逆に厳しくすることを主とすれば、寛容が忘れがちになります。大小の事や物事万事について一律に型にはめて行おうとするのが、俗人の情です。よってこれでは、大経綸(国の秩序を整え治めること)はとてもできません。それゆえ、大任を行う場合においては、一切合切をすべて自分の胸中に引き受けて、才のある者には才を、徳のある者には徳を、また勇気のある者にはその勇気を引き立てて十分に能力を発揮させるようにしなければ(適材適所)、大事業は成し遂げられません。自分ひとりの智力だけでは、一方向の事はできても、八方のことは到底出来るものではありません。一つの事を行う才智を持った人材は大勢います。ただ、八方全てにわたってうまく物事をこなせる人間は殆んど降りません。
韓魏公(かんぎこう:韓琦かんき)は、学問もあり、人材を愛して使ったとされていますが、この韓琦でさえ、「人材を愛して用いてきたが、完全な人物はなかなかいない。だからある所に秀でた人物を使うことで満足しなければならない。しかし本当はどこにつぃかっても安心して任せられる人物がほしいものだ。といったその言葉は、非常に深い意味があります。
水:
この御論大経綸の深意を尽されて、八音を合せて楽は成り、五味を合せて味は成り申候。何事も一様に致候ほど小き者は之無く候。今の世にてこの意を解し、其の作用候は、彼の海畔(かいはん)の一老翁の外には有るまじくと存候。
(訳)
このご意見は、大経綸(国の秩序を整え、治めること)の深い意味を尽されており大変結構です。音楽は八音(金・石・糸・竹・匏(ほう)・土・革・木)がちょうどうまく調和して奏でられ、料理の味も五味(甘・辛・苦・酸・鹹(かん))がうまく合わさって丁度良い味になります。何事も一様・一律に片つけてしまう者ほどつまらないちっぽけな人間はないでしょう。今の世の中で、この意見を理解し、それを実行できるのは、かの海畔の一老翁(松浦静山公のこと)置いて他には居らぬと思います。
注:ここに甲子夜話の作者「松浦静山公」がでてきます。
やはり当時この2人とも親交があり、静山公は、人物として、とても信頼されていたことがわかります。
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雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(60) 大経綸(だいけいりん)
雲:
材学究門戸を争(あらそひ)候は申までもなし。王侯大人、政に臨でも門戸の気味合ままこれ有る哉に存候。寛を専(もっぱら)と致し候人は厳を知らず。厳家も亦然り。大小万事一様に致したがり申候は、俗人の情に候。故に大経綸は迚(とて)も出来申さず候。夫(それ)故に大任に当り申候人は、諸事万事残らず我胸中に引受け、才は才にて引立て遣はし、徳は徳にて引立て、勇は勇にて引立て遣はし候はねば、大事業は成がたく候。我一己の智にては、一方の事は出来申ても、八方の事はなし得申さず候。一方に当る才智の人は随分出申すべき、八方に当りて大経綸を致し候者は間気と存申候。韓(かん)魏(ぎ)公経綸を以て人に許さず候は、深意味と存候。
(訳) 材=才
学問や才能を磨き追い求める人達はいつも門戸(学閥)を作って争うことは言うまでもありません。王侯大人(おうこうたいじん=王侯将相 おうこうしょうそう・・・高貴な身分は、才能や努力などできまり、家柄や血統ではないということ)でも、政(まつりごと)を行う場合にも派閥があることはよくある事です。寛容を主に行うと、人は厳しさを知りません。また逆に厳しくすることを主とすれば、寛容が忘れがちになります。大小の事や物事万事について一律に型にはめて行おうとするのが、俗人の情です。よってこれでは、大経綸(国の秩序を整え治めること)はとてもできません。それゆえ、大任を行う場合においては、一切合切をすべて自分の胸中に引き受けて、才のある者には才を、徳のある者には徳を、また勇気のある者にはその勇気を引き立てて十分に能力を発揮させるようにしなければ(適材適所)、大事業は成し遂げられません。自分ひとりの智力だけでは、一方向の事はできても、八方のことは到底出来るものではありません。一つの事を行う才智を持った人材は大勢います。ただ、八方全てにわたってうまく物事をこなせる人間は殆んど降りません。
韓魏公(かんぎこう:韓琦かんき)は、学問もあり、人材を愛して使ったとされていますが、この韓琦でさえ、「人材を愛して用いてきたが、完全な人物はなかなかいない。だからある所に秀でた人物を使うことで満足しなければならない。しかし本当はどこにつぃかっても安心して任せられる人物がほしいものだ。といったその言葉は、非常に深い意味があります。
水:
この御論大経綸の深意を尽されて、八音を合せて楽は成り、五味を合せて味は成り申候。何事も一様に致候ほど小き者は之無く候。今の世にてこの意を解し、其の作用候は、彼の海畔(かいはん)の一老翁の外には有るまじくと存候。
(訳)
このご意見は、大経綸(国の秩序を整え、治めること)の深い意味を尽されており大変結構です。音楽は八音(金・石・糸・竹・匏(ほう)・土・革・木)がちょうどうまく調和して奏でられ、料理の味も五味(甘・辛・苦・酸・鹹(かん))がうまく合わさって丁度良い味になります。何事も一様・一律に片つけてしまう者ほどつまらないちっぽけな人間はないでしょう。今の世の中で、この意見を理解し、それを実行できるのは、かの海畔の一老翁(松浦静山公のこと)置いて他には居らぬと思います。
注:ここに甲子夜話の作者「松浦静山公」がでてきます。
やはり当時この2人とも親交があり、静山公は、人物として、とても信頼されていたことがわかります。
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