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水雲問答(64) 姦才ある者の起用

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答64

水雲問答(64) 姦才ある者の起用

運:
 人才を使(つかひ)申候に、姦才ある者を用(もちひ)候ほどこわき者はなく候。然かも才有る者は用ひざれば事成り申さず、□が了見には、その人の才□の使ひおほせ候と見切候はば使ひ申すべく、見切申さず候はば、擯斥(ひんせき)いたし候が宜しくと存候。使ひおほせ申と存誤られ候こと、古今歴々と相見へ申候。恐るべきのことに候。晋(しん)の文が鐘会(しょうくわい)を使ひ、斉(せい)の蕭道成(しょう どうせい)が沈攸之(しんゆうし)を使ひ申候は、姦雄だけ姦才の用ひ方、格別に候と概歎仕候。

(訳)
 人材の起用ということについて、悪知恵の有るずるがしこい人を用いるほど怖いものはありません。しかも才能の有る人を用いなければ大概の事は成し遂げることが出来ません。私が考えるところ、その人の持っている才能を使いこなせるのか、または見切ってしまうことが出来るのかを判断して使うべきでしょう。見切らなければ排除することがよろしいと思います。使えないのに、使うことが出来ると誤って使ってしまうことは、今も昔もよくその歴史が教えてくれます。これは大変恐ろしいことでございます。晋(しん)の文公が、野心家の鐘会(しょうかい)を使ったこと、斉(せい)の蕭道成(しょう どうせい)が沈攸之(しんゆうし)を使ったことなど、これはずるがしこい勇者には、ずるがしこい人を使うことが出来るという特別な用い方があると思われます。これは概歎(がいたん:うれいなげく)しています。

水:
 昔より姦才を用ひて誤しこと、例多きは申に及ばず。今の世にさへ、某はくせ者なれど、我は使ひおほせん迚(とて)、夫が為に誤られ候者比比(しばしば)絶ず。見切て擯斥(ひんせき)至当のことに候へども、今世禄の人、喩へば我が手にて擯斥する時は、人の手を仮(か)りて出づ。其害我用るに超(こえ)たること有り。茲(ここ)に至りて何(い)かんとも為し難き勢あり。此所置の工夫なし。如々何々。

(訳)
 昔からずるがしこい人間を用いて誤った例は数多くあります。今の世でさえ、あの人間はくせ者であるが、使いこなすことが出来るといって、それが失敗であったということはしばしばあり、それが無くなることもまたありません。見切ってその人間を排除することは至極尤もですが、今の世襲で受継いでいる人々、例えば、自分の手で排斥する時は、自ら行わず人の手を借りて命令を出す。するとその害が自分の領分を超えることがあります。そうなりますと、どうにも手の下しようが無くなってしまう場合があります。このような事の手当てをどのようにするかの工夫が必要です。如何でしょうか。



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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/04 10:16
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