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東城寺の経塚展

 現在土浦市博物館で ≪東城寺と「山の荘」≫ という企画展が開かれている。

昨日友達が久しぶりに訪ねてきて、この展覧会(第42回特別展)の立派なカタログを頂いた。

この旧新治村(現土浦市)にある東城寺という寺を訪れたのは東日本大震災の10日ほど前のことだ。
あれから10年がたち、ここの経塚から発掘された経筒などが、国の博物館から地元の博物館に里帰りしたために、急遽この企画が行われたものと思われる。

展示会の内容も、この地味な経塚は「古代からのタイムカプセル」として紹介され、少しは感心をもたれる人も出てくるだろうと期待している。

ただ、この東城寺の経塚は12世紀のはじめ、1122年、1124年の平致幹(これもと)の銘がある銅製経筒で、東日本で見つかっているものとしてはかなり古い。

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土浦図書館の学芸員の方が総出でこのカタログを作成したことがうかがえる立派な冊子となっていた。

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ただ、何か物足りない。
鎌倉より後の世界や古代についてはそれなりの考察が出来ているように思うのだが・・・・

北条の多気山に居を構えていた多気大掾(だいじょう)氏:常陸平氏 に冠する記述がかなり曖昧で、そっけない。
この経塚の施主がこの平氏であるにもかかわらず・・・・

一体どういうことなのか??

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改めてWikiなどでこの多気氏などと、水戸の吉田氏  後の常陸大掾氏などを検索してみて驚いた。
本家である石岡の歴史がどうも昔のままでタイムスリップしてしまい開かずの扉に封印されてしまったようだ。

石岡は早く歴史博物館などを作り、そこに外部の歴史研究者なども配置して、常陸大掾氏のカタログなどを作るべきである。

いまは都合の良い人のみで小さな壷の中で議論しているだけでは、真のこの町の発展はなさそうだ。

今は周りから違った角度で外堀が埋められていくような気がしてならない。

北条の多気太郎(平義幹)が小田氏の換言で鎌倉に呼ばれてお家断絶となったのは1193年。
(この子孫は後に石岡の大掾氏を補佐するためにやってきた。芹沢氏です)

頼朝から大掾の職を受継ぐことを命じられたのは、水戸の吉田氏で、この吉田氏は水戸城を造営しその馬場に住んだので馬場氏とも言われます。多気氏の平致幹(平義幹の2代前)の弟だ。

東城寺の経塚はこの平致幹が命じて作らせたものだ。

全員が常陸国の地方長官である大掾職についていたわけではないようだが、多くは大掾職を継承して行ったために「大掾氏」と呼ばれる。
都から見れば常陸介などが偉そうに見えるが、その地方で金を持っており、絶大な力を持っていたのがこの大掾職なのだ。

以前の参考記事
 ・筑波四面薬師(4) 東城寺 ⇒ こちら
 ・経塚(3) ⇒  こちら


筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/15 14:07
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