歴史上の気になる人物(4)- 藤原秀郷
このブログで昨年「歴史上の気になる人物」として、役小角、秦河勝、泰澄と3人を取り上げたが、少しずつ人物を調べながら追加していきたいと思っている。
今回は少し前から気になっていた「藤原秀郷(ひでさと)」を紹介したいと思います。
さて、この藤原秀郷の名を知っておられる方はどれくらいいるのでしょうか?
大ムカデ退治の俵藤太(たわらのとうた)のことだといえば少し子供の頃に日本昔話的な歴史本には必ず登場していたので思い出される人もおられるかもしれません。
また、平将門を退治した人物で、関東の源氏、平氏と肩を並べる関東武士団の藤原流の祖であり、奥州藤原氏の祖でもあるといえばもう少し理解は広がるかもしれません。
私がここでとり上げてみようと思ったのは、この大ムカデ退治の伝説が何処から生まれたのか、その背景を知りたいと思ったからです。
その参考には、栃木県立博物館が2018年秋に実施した企画展「藤原秀郷-源平と並ぶ名門武士団の成立」(第122回企画展)で作成された冊子の内容を使わせていただきたいと思います。

まず、関東などの東国に、源氏、平氏などが武士の基盤を作って行きましたが、話せば長くなってしまいますので、以前書いたエッセイ記事を興味があれば読んでください。
1) 関東における平氏について-平氏のおこり ⇒ こちら
2) 茨城(常陸国)にまつわる源氏の一族-甲斐武田氏 ⇒ こちら
3) 茨城(常陸国)にまつわる源氏の一族-秋田佐竹氏 ⇒ こちら
ただ、これらの記事も今から15年近くも前の記事ですから、内容も違っているかもしれません。
読むにしても一つの参考程度です。
さて、今回とり上げた藤原秀郷は、今から1000年以上も前に起きた平将門の乱を鎮めた立役者として、名を馳せ、その後関東北部へ勢力を拡大していきました。
その中心は栃木県などが主流ですが、私の住む茨城県でも少し北へ行くとこの藤原秀郷子孫が活躍しています。
那珂氏や、その後に出た常陸江戸氏などがそうです。
常陸国風土記に「粟川」として登場してくる那珂川は常陸国の重要な大きな川ですが、この那珂川の名前の由来についてもおそらく、この那珂氏が住んだ地名「那珂」があり、それが川の名前になって行ったと考えることも出来るでしょう。
勿論、地名の「那珂」が先にあり、その名前にはおそらく別な意味が含まれていると思われますが。

今回はこの関東北部の武士団(藤原氏)の祖としての藤原秀郷はまた別の機会にするとして、藤原秀郷にまつわる物語「俵藤太物語」を検証していきたいと思います。

御伽草子に記載されています(詳細は⇒こちら にあります)が、内容も長くなりますので、博物館の冊子などに少し手を加えてここに記載させていただきます。
上【大ムカデ退治の話】
朱雀天皇の時、従五位上村雄朝臣(むらおあそん)の嫡男で田原(たわら)の里に住み、田原藤太秀郷と呼ばれる勇士がいた。
そのころ、近江国(現:滋賀県)の勢田の橋(瀬田の唐橋)に大蛇が横たわって人々の通行を妨げることがあった。
しかし、そこを通りかかった秀郷は、臆することなく大蛇を踏みつけて平然と渡って行った。
その夜、美しい娘が秀郷を訪ねてきた。この娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間秀郷が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものだったのです。
娘は、秀郷が勇猛な人物と見込んで、次のような頼みごとを秀郷にしました。
「私は、この近くの三上山(みかみやま)にいる龍神一族ですが、ここに大ムカデが住みついて、大変苦しめられています。こうして姿を変えて勇気のある者を探していました。貴方様の勇猛さを見込んで、是非、この大ムカデを退治して欲しいのです」と懇願したのです。
秀郷はこの願いを引き受け、先祖より伝来の太刀と弓に三本の矢を持って三上山に向かいました。
するとそこには、山を七巻半する大ムカデが現れたのです。(この七巻半は鉢(八)巻きに届かないとの意味がある)
秀郷は得意の矢を、1本、2本と射たがすべて大ムカデには通じず、はね返されてしまいました。
とうとう最後の一本の矢になった時、ムカデは唾(つば)に弱いことを思い出し、矢の先(鏃)に自分の唾をつけ、南無八幡神大菩薩と唱えて、願いを込めて矢を射ると、矢は大ムカデに見事命中して、ようやく射止めることができたのです。
翌朝再び娘が現れ、大ムカデ退治の礼として、巻絹、首を結んだ俵、赤銅の鍋を秀郷に贈りました。
俵は米を取り出しても尽きることがない不思議なもので、このことから秀郷は「俵藤太(田原藤太)、たわらのとうた」と呼ばれるようになりました。
また、湖水の主の龍王は「御身の子孫のために、必ず恩を謝すべし」といって、黄金づくりの鎧と太刀を与え、「これで朝敵を滅ぼして将軍に任ずるように」といい、さらに、「日本国の宝になし給え」と釣鐘を与えたのです。
秀郷は、この鎧と剣は武士の重宝として子孫に伝え、釣鐘は三井寺(滋賀県大津市)に寄進したのです。
下【平将門の乱の平定】
やがて、下総国の平将門が新皇を称して反乱を起こした。
藤太(秀郷)は、最初、将門に同心して、日本国を半分得ようと将門に近づきましたが、将門の軽率な言動に落胆して、すぐに京に行き天皇より将門追討の宣旨を受けたのです。
その後、三井寺の弥勒菩薩と新羅大明神に祈願して再び東国に向かいました。
藤太は京から将門追討で出発した平貞盛の軍と合流して将門と戦いましたが、あまりにも将門が超人的であったため、戦に敗れ、正面から戦っても勝てないと悟ったのです。
そこで宇都宮大明神(二荒山神社)に祈願し霊剣を賜り、将門にへつらって館に移り住み、そこにいた将門の妾の女性と契りを結び、そこで、将門の弱点を聞きだしたのです。
それは、将門の姿は七体に見えているが、その本体には影があること、また「こめかみ」が将門の急所であることでした。
そして、得意の弓矢でこの急所を射る事が出来、ついに将門を討ち果たすことができたのです。
そして、将門の首を持って京に戻った藤太(秀郷)は、恩賞として従四位下に叙されて武蔵・下野両国を賜り国司となり、京より東国へ下ったのです。
そして、蒲生氏、小山氏、宇都宮氏、足利氏、結城氏、長沼氏、皆川氏、佐野氏、小野寺氏、蒲生氏、那須氏、奥州藤原氏 ・・・などへ発展した。

さて、この物語はこの藤原秀郷の武勇伝を誇張しながら、作られた話であるとは思われますが、その背景にはどのようなことが意図されていたのでしょうか?
まず、この博物館の冊子には、この伝説と関係すると思われる「日光山縁起絵巻」が紹介されています。
すこし、紹介します。
「日光山縁起絵巻(上下二巻)は、古代より山岳信仰の霊地として栄えた日光山の縁起物語を描く。日光山の縁起であると同時に、宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)の縁起も説いている。・・・・・・・・・・
日光戦場ヶ原の地名の由来になった、大ムカデと大蛇の戦いと猿丸による大ムカデ退治の神戦譚には、龍神に依頼され大ムカデを退治した俵藤太伝説と共通するものがある。すなわち、人間が神の依頼を受けて神戦に参加し、一方の神を助けて勝利をもたらすと、神は助力を感謝して特別の恩恵を施すという構図である。
俵藤太が龍神の庇護によって将門を倒したというのも、この構図に当てはまると考えられる。
ただ、この日光山縁起絵巻が何時成立したのかは古い版が逸失していて明らかではなく、南北朝時代にはすでに存在していたのではないかと見られるとしている。
俵藤太伝説はこの日光山縁起から派生して成立したのではないかと考えると、秀郷は新皇となった平将門(=大ムカデ)から天皇(=龍神)を助けた英雄として捉えることが出来る。
舞台が近江であり、秀郷はここに行った形跡が無いが、近江が都の境界であり、この都の番人として秀郷を考えたこと、また都でこの秀郷流藤原氏が活躍していたことなどが関係しているのではないかという。
まあ、今回はこの程度にして、関東の三大武士団といわれる藤原秀郷流の位置づけなどを今後考えるためのヒントとして残しておきたいと思います。
今回は少し前から気になっていた「藤原秀郷(ひでさと)」を紹介したいと思います。
さて、この藤原秀郷の名を知っておられる方はどれくらいいるのでしょうか?
大ムカデ退治の俵藤太(たわらのとうた)のことだといえば少し子供の頃に日本昔話的な歴史本には必ず登場していたので思い出される人もおられるかもしれません。
また、平将門を退治した人物で、関東の源氏、平氏と肩を並べる関東武士団の藤原流の祖であり、奥州藤原氏の祖でもあるといえばもう少し理解は広がるかもしれません。
私がここでとり上げてみようと思ったのは、この大ムカデ退治の伝説が何処から生まれたのか、その背景を知りたいと思ったからです。
その参考には、栃木県立博物館が2018年秋に実施した企画展「藤原秀郷-源平と並ぶ名門武士団の成立」(第122回企画展)で作成された冊子の内容を使わせていただきたいと思います。

まず、関東などの東国に、源氏、平氏などが武士の基盤を作って行きましたが、話せば長くなってしまいますので、以前書いたエッセイ記事を興味があれば読んでください。
1) 関東における平氏について-平氏のおこり ⇒ こちら
2) 茨城(常陸国)にまつわる源氏の一族-甲斐武田氏 ⇒ こちら
3) 茨城(常陸国)にまつわる源氏の一族-秋田佐竹氏 ⇒ こちら
ただ、これらの記事も今から15年近くも前の記事ですから、内容も違っているかもしれません。
読むにしても一つの参考程度です。
さて、今回とり上げた藤原秀郷は、今から1000年以上も前に起きた平将門の乱を鎮めた立役者として、名を馳せ、その後関東北部へ勢力を拡大していきました。
その中心は栃木県などが主流ですが、私の住む茨城県でも少し北へ行くとこの藤原秀郷子孫が活躍しています。
那珂氏や、その後に出た常陸江戸氏などがそうです。
常陸国風土記に「粟川」として登場してくる那珂川は常陸国の重要な大きな川ですが、この那珂川の名前の由来についてもおそらく、この那珂氏が住んだ地名「那珂」があり、それが川の名前になって行ったと考えることも出来るでしょう。
勿論、地名の「那珂」が先にあり、その名前にはおそらく別な意味が含まれていると思われますが。

今回はこの関東北部の武士団(藤原氏)の祖としての藤原秀郷はまた別の機会にするとして、藤原秀郷にまつわる物語「俵藤太物語」を検証していきたいと思います。

御伽草子に記載されています(詳細は⇒こちら にあります)が、内容も長くなりますので、博物館の冊子などに少し手を加えてここに記載させていただきます。
上【大ムカデ退治の話】
朱雀天皇の時、従五位上村雄朝臣(むらおあそん)の嫡男で田原(たわら)の里に住み、田原藤太秀郷と呼ばれる勇士がいた。
そのころ、近江国(現:滋賀県)の勢田の橋(瀬田の唐橋)に大蛇が横たわって人々の通行を妨げることがあった。
しかし、そこを通りかかった秀郷は、臆することなく大蛇を踏みつけて平然と渡って行った。
その夜、美しい娘が秀郷を訪ねてきた。この娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間秀郷が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものだったのです。
娘は、秀郷が勇猛な人物と見込んで、次のような頼みごとを秀郷にしました。
「私は、この近くの三上山(みかみやま)にいる龍神一族ですが、ここに大ムカデが住みついて、大変苦しめられています。こうして姿を変えて勇気のある者を探していました。貴方様の勇猛さを見込んで、是非、この大ムカデを退治して欲しいのです」と懇願したのです。
秀郷はこの願いを引き受け、先祖より伝来の太刀と弓に三本の矢を持って三上山に向かいました。
するとそこには、山を七巻半する大ムカデが現れたのです。(この七巻半は鉢(八)巻きに届かないとの意味がある)
秀郷は得意の矢を、1本、2本と射たがすべて大ムカデには通じず、はね返されてしまいました。
とうとう最後の一本の矢になった時、ムカデは唾(つば)に弱いことを思い出し、矢の先(鏃)に自分の唾をつけ、南無八幡神大菩薩と唱えて、願いを込めて矢を射ると、矢は大ムカデに見事命中して、ようやく射止めることができたのです。
翌朝再び娘が現れ、大ムカデ退治の礼として、巻絹、首を結んだ俵、赤銅の鍋を秀郷に贈りました。
俵は米を取り出しても尽きることがない不思議なもので、このことから秀郷は「俵藤太(田原藤太)、たわらのとうた」と呼ばれるようになりました。
また、湖水の主の龍王は「御身の子孫のために、必ず恩を謝すべし」といって、黄金づくりの鎧と太刀を与え、「これで朝敵を滅ぼして将軍に任ずるように」といい、さらに、「日本国の宝になし給え」と釣鐘を与えたのです。
秀郷は、この鎧と剣は武士の重宝として子孫に伝え、釣鐘は三井寺(滋賀県大津市)に寄進したのです。
下【平将門の乱の平定】
やがて、下総国の平将門が新皇を称して反乱を起こした。
藤太(秀郷)は、最初、将門に同心して、日本国を半分得ようと将門に近づきましたが、将門の軽率な言動に落胆して、すぐに京に行き天皇より将門追討の宣旨を受けたのです。
その後、三井寺の弥勒菩薩と新羅大明神に祈願して再び東国に向かいました。
藤太は京から将門追討で出発した平貞盛の軍と合流して将門と戦いましたが、あまりにも将門が超人的であったため、戦に敗れ、正面から戦っても勝てないと悟ったのです。
そこで宇都宮大明神(二荒山神社)に祈願し霊剣を賜り、将門にへつらって館に移り住み、そこにいた将門の妾の女性と契りを結び、そこで、将門の弱点を聞きだしたのです。
それは、将門の姿は七体に見えているが、その本体には影があること、また「こめかみ」が将門の急所であることでした。
そして、得意の弓矢でこの急所を射る事が出来、ついに将門を討ち果たすことができたのです。
そして、将門の首を持って京に戻った藤太(秀郷)は、恩賞として従四位下に叙されて武蔵・下野両国を賜り国司となり、京より東国へ下ったのです。
そして、蒲生氏、小山氏、宇都宮氏、足利氏、結城氏、長沼氏、皆川氏、佐野氏、小野寺氏、蒲生氏、那須氏、奥州藤原氏 ・・・などへ発展した。

さて、この物語はこの藤原秀郷の武勇伝を誇張しながら、作られた話であるとは思われますが、その背景にはどのようなことが意図されていたのでしょうか?
まず、この博物館の冊子には、この伝説と関係すると思われる「日光山縁起絵巻」が紹介されています。
すこし、紹介します。
「日光山縁起絵巻(上下二巻)は、古代より山岳信仰の霊地として栄えた日光山の縁起物語を描く。日光山の縁起であると同時に、宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)の縁起も説いている。・・・・・・・・・・
日光戦場ヶ原の地名の由来になった、大ムカデと大蛇の戦いと猿丸による大ムカデ退治の神戦譚には、龍神に依頼され大ムカデを退治した俵藤太伝説と共通するものがある。すなわち、人間が神の依頼を受けて神戦に参加し、一方の神を助けて勝利をもたらすと、神は助力を感謝して特別の恩恵を施すという構図である。
俵藤太が龍神の庇護によって将門を倒したというのも、この構図に当てはまると考えられる。
ただ、この日光山縁起絵巻が何時成立したのかは古い版が逸失していて明らかではなく、南北朝時代にはすでに存在していたのではないかと見られるとしている。
俵藤太伝説はこの日光山縁起から派生して成立したのではないかと考えると、秀郷は新皇となった平将門(=大ムカデ)から天皇(=龍神)を助けた英雄として捉えることが出来る。
舞台が近江であり、秀郷はここに行った形跡が無いが、近江が都の境界であり、この都の番人として秀郷を考えたこと、また都でこの秀郷流藤原氏が活躍していたことなどが関係しているのではないかという。
まあ、今回はこの程度にして、関東の三大武士団といわれる藤原秀郷流の位置づけなどを今後考えるためのヒントとして残しておきたいと思います。
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