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遊女の墓(潮来)

 昨日、また銚子へ行く途中で、潮来市の中心部にある真宗の寺「西円寺」に行って来ました。
ここには「遊女の墓」があるのです。

前に2度ほど訪れているのですが、墓のありかがわからず断念したことがあったのです。

最近、江戸時代に松浦静山(まつらせいざん)が書いた甲子夜話(かっしやわ)を紹介していただいているサイトで遊女の話しを読み、ここもまた訪れたいと思っていたからです。
(サイト:甲子夜話のお稽古 ⇒ こちら

今度は見つけることが出来ました。
矢印案内板があるのですが、これだと、墓所の端部側にありそうですが、もっと内側の真ん中附近でした。

立派な供養碑が建てられていました。

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供養塔には「衆生済度遊女之墓」と彫られていました。

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左右に幾つかの墓石があり、その多くが江戸時代からの遊女たちのものでしょうか。

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そして、もう一つの石柱には細かな文字がいっぱい。

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衆生済度遊女の墓建立の誌
且つて一世を風靡した野口雨情の哀愁の詩「船頭小唄」も其の背景が遊郭の町潮来であったからこそ一層世の人々の情をさそったのではなかろうか。古書の一文をかりれば、菖蒲咲く潮来の里は奥州より中山道に通ずる要津にあたり銚子より鉾田より凡そ内海に入る者皆此処を過ぎりければ水駅として夙に世に顕る。されば、古くより艶色をひさぎて旅情を慰むるものなどありしならん。徳川氏府を江戸に開き此の地水戸領となりし後は其の盛り旧にも倍し交通益々頻繁にして諸大名の蔵屋敷建ち、朝夕に出船入船落込客も多かりければ藩治殊に意を用ひ水戸藤柄の娼家を移し、江戸の制に倣ひて浜一丁目に公娼を許し地方の繁栄を謀る傍ら罪人の検挙等に資せらる、とあり、延宝七年(1679年)潮来の一画に正式なる遊廓が誕生したのである。明治維新後の明治五年娼妓解放令が出され改革が行われたかに見えたが実際は空文化し公娼制度は賃座敷業に変形し却って繁栄をみた。不夜城の妓楼に絢爛と連ねる源氏名の数々、だが彼女たちは好んで入籍したのではない、年貢の上納に事欠く農家の娘、両親を失った孤児、高利の返金に迫られて親のために観念した孝行娘、義理ある人のために身を沈めた年若い妻女、・・・・・・

石柱の四面にわたってびっしりと・・・・
調べると、島田三郎さんという方が、昭和五十四年五月二十日に建立したものと判明しました。

元々潮来には江戸時代から遊郭がありました。
明治5年の法改正で、遊郭は禁止されたのですが、それ以降も昭和の初期頃まで形を変えて残り続けたといわれています。
ほぼ姿を消したのは、戦後の昭和32年の売春防止法が成立した時からだそうです。

この遊女たちの墓は、遊郭の主人が亡くなった遊女を寺に弔って建てたものといわれています。



潮来地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2021/05/15 11:17
コメント
ぎりぎり間に合った歴史伝承か
衆生済度遊女之墓ですか。墓というよりもう一方の墓誌と併せて顕彰碑のようですね。見た目も新しく昭和54年建立では、直接その時代に生きた人が建てたのではなく思い入れがあったのでしょうが、どんな情念か知りたくなります。
遊郭が普通にあった戦前の生活は自分の父や祖父の時代のこととして少しはかじっていますが、遊女が特に過酷な職業とは私は思えず、商家に丁稚や女中として無給で入った子供たちを思います。

また過酷と言えば‘兵隊にとられる’のが最悪のもので、それゆえ顕彰碑も多くあるのだと思います。この遊女を覚える石碑(墓誌)も昔の生活に思いを致す役割を果たし、もう少し後の時代になってこれが無ければ思い出す人も希少になるかと思えば、ぎりぎり間に合った意味ある建立かもしれません。
Re: ぎりぎり間に合った歴史伝承か
忠顕 さま 今日もご訪問ありがとうございます。
潮来には何度も足を運び、其の表の顔、裏の顔、歴史的な変化などを見て来ました。
この遊女之墓の碑は確かに昭和の後半でまだいくらか昔を思い出せるときに建てたものですね。
書かれている内容は私もこの街を見てきて感じているものがあり、理解できます。
江戸時代から舟運が盛んで、水戸藩でもありましたので、水戸や其の先の仙台などからも江戸にたくさんの荷物が運ばれました。
荷物ばかりでは当然泣く、人の往来も盛んで、江戸の新しい文化なども伝えられていたようです。
一方で、人が集る所に色町ができるのも常で、水戸藩も潮来や大洗(祝町)などに公認の遊郭を作り華やかに行われていたのでしょう。潮来節などが此処から各地にお祭りなどと共に広がりました。
ただ、この碑の建立者は、野口雨情の詩(船頭小唄)が潮来の稲荷山にあり、そこには「潮来町立女子技芸学校跡」という石碑もおかれています。この女学校は場所が移されて今の潮来高校になっています。
また、長勝寺には古い梵鐘があり、ここには中国の不夜城みたいににぎやかだという漢詩がおかれています。
華やかな陰で、哀れな遊女も多くいたのだということを残しておきたかったのでしょう。
いまは水郷アヤメまつりでただ面の顔ばかりではないということを。
私はもう一つの天狗党の悲惨な跡がここ潮来には残っていると天狗党の墓や潮来郷校は藩校を見て回って感じたものがありました。歴史の伝承(表・裏)も確かに必要ですね。

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