白い藤
風土記の丘公園の入口の高台に藤棚がある。ここから公園が見渡せる場所となっている。
この藤の花は今まで普通の紫色の藤ばかりだと思っていたが、よく見ると白い藤の花と紫の花が別々に咲いていた。
白い花は珍しいので写真に撮ったのであるが、この藤なかなか上品な白であった。



この藤の花は今まで普通の紫色の藤ばかりだと思っていたが、よく見ると白い藤の花と紫の花が別々に咲いていた。
白い花は珍しいので写真に撮ったのであるが、この藤なかなか上品な白であった。



Author:Roman
まほらの里へようこそ!
出生地:新潟県
育ち:横浜・東京・茨城
現在地:茨城県石岡市
まほらとは真秀らと書きます。真にすぐれた所を意味する万葉のことばです。
URL:1300年の歴史の里石岡ロマン紀行もよろしく
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風に吹き散る花の姿。
藤で有名なあしかがフラワーパークで、黄色の藤を見たことがあります。
私事ですが、幼稚園ではふじ組でした。(善隣幼稚園)
キリスト教の幼稚園いいですね。
行徳さんも確かおなじでしたね。
今泉さんのブログで忠犬タローの話を知りました。
白い藤は不思議にきれいでした。
今の善隣幼稚園は園舎も制服も違って、まったく別の幼稚園のよう・・。時代ですから、仕方ありませんね。
馬の記憶は幼稚園に通うバスの中から、見たものです。
私もバス組でした。
御一緒していたのじゃないでしょうか。
ボンネットバスで、方向指示器が→式でしたね。
馬いましたね。今の信用金庫の辺りに車庫があり
馬もいました。同じあたりに伝書鳩が飼われていて上空を飛び回っていました。
タローのことはつい最近知ったのですが、御幸通には何頭か放し飼いの犬がおり、のんびり散歩
していました。そのうちの一頭が彼だったの
でしょう。わが幼稚園の関係者だったとは
ビックリでした。
幼稚園のお話をよく覚えておいでですね。
私は細かなことはほとんど忘れています。
私が通ったのは横浜でしかも保育園。お昼寝の時間もありました。
しかし珍しくキリスト教の保育園でした。
記憶というのは同じ環境でその後に思いだしながらその記憶がはっきりとしたものになるのでしょう。
小学校2年からは東京に転校でしたし、中学からは少し離れた私立の学校に行っていましたので
幼いころの友達とも別れてしまいました。記憶も徐々に薄れるものですね。
皆さんがうらやましいです。
このブログでも大いに仲間と会えるといいですね。
覚えている部分とそうでない部分が極端です。
べあべあ様の’ふじ組’という情報に震えました。
聞き覚えはあるのです、でも自分がどうだったかの記憶はありません。
善隣幼稚園もキリスト教で、昨年11月、在園当時毎日拝していたJesus様の尊顔を数十年ぶりに再拝し、胸も頭もざわめきました。
部分部分妙に鮮明に思い出すのです。
園庭で遊んでいた鉄人28号ごっことか。
これからもよろしくお願いします。
同じ幼稚園で盛り上がっていますが、私よりはみなさんの若いようですね。
私の頃は戦後まだそんなに経っていなかったし、テレビもありませんでした。
2年保育、三年保育などをする家庭はまだほとんどなく、幼稚園や保育園などに通っている人の方がすくなかったかもしれません。
時代の違いを感じました。
ラジオから流れる「新諸国物語」や「赤胴鈴之助」に夢中でした。
テレビよりもラジオの物語の方が想像力を働かせて聞くので楽しかったように思います。
小説を読んで、その映画化されたものを見てがっかりするのと同じです。
私は3年組でしたの、赤青黄のどれかになります。
飴と肝油は懐かしいですね。
帰り際に廊下に並んでもらいました。
駄菓子屋さんも確かにありました。運動会は確かに空き地みたいなところ。小学校に進んでも何度か遊びに行った場所でした。
芋ほりもありましたね。園長先生の教育方針で
外で身体動かせ、でしたから、外の記憶が多い
ように思います。
3年組ですか。私の当時には3年などを預かる幼稚園や保育所は無かったように思います。
これは全国的にも同じでしょう。
戦後まだまだドタバタしていたようです。砂糖など貴重でサッカリンなどがありました。
やはり時代が違いますね。
記憶もほとんど曖昧です。
石岡には今でも駄菓子屋さんがありますね。
全国的に見ても珍しいのではないでしょうか?
行徳にもあります。
小学生が結構たまっています。
店主はROMAN様世代ですね。
昔は駄菓子屋に10円持って飴玉を買いに行くなんてこともありましたが
それも昭和30年代半ばまで。
ほとんど都会の方では見かけなくなっていたのですが、石岡の多さに驚いていました。
近くにも看板もないお店に小学生が自転車を前に止めて集まっています。
覗くと私よりまだ大分上の上品なお婆さんが一人でやっていました。
これも、面白そうなので次回にでも紹介して見ましょう。
その企画は是非お願い致します。
私たちが通っていたお店は実家の近くも小学校の
近くも影も形もありません。
それでも仰せのように、驚くほどお店が多いの
ならそれもビックリ。21世紀で尚駄菓子屋が賑わっているのなら貴重な民俗史と思います。
なにかとても嬉しいです。どんなものが置かれて
いるのでしょう。
この辺の思いでもまたおいおいと。
自分が通っていた?お店がなくなって、「駄菓子屋も減ったなー」と思っていたのですが、今でもあるんですか?是非是非ブログで紹介してください!
話は逸れますが、石岡で「駄菓子」というと、
黒糖を使った、かりんとうみたいな茶菓子をさしますよね??小さいころは、お茶の時間によく食べていました。けっこう固いせいか、うちの子供たちは手を付けません・・。今どきの子はふわふわした食べ物が好きみたいで、それが流行のようですね。
それ私知りません。黒糖つかった所謂麩菓子では
なくて?それなら今でもあちこちあるようなのは
tvなどで確認しています。
自分がガキ頃というと円錐形の飴で、紐がついており、其の紐を引張ること=くじになっており、大中小がもらえる。
アラレと言い、醤油と今のうにあられの中間の
ような1cmほどのあられで、こちらもくじ引きで
当ればアイスクリームのカップで二杯三杯。はずれでも一杯でした。
他にもガラスの管に入ったゼリーもくじであたり
はずれ。
ライスチョコレートとか。メロンシャーベットと
か定番たくさんありましたね。
駄菓子屋は幼稚園小学生にとって人生最初の経済
教室です。それが今も元気ならとても嬉しいですね。
仙台で有名な駄菓子もこれと似たものかもしれません。駄菓子違いですね。
もちろん一般の駄菓子も大好きでした。、ライスチョコやバクダン、△飴(糸つき)、粉ジュース・・
好きだった駄菓子もまた年代で違うかもしれません。
日暮里や錦糸町には駄菓子の問屋街がありますね。
駄菓子で盛り上がってしまいましたね。
菅谷菓子店は駄菓子の大きな布暖簾をかかげて駄菓子というけど少し違います。
しかし伝統を受け継ぎ昔からやっているお菓子でこれも駄菓子でしょう。
しかし、子どもの頃の駄菓子屋は小銭を握りしめてバラ売りの菓子を瓶などに入れて売っている
駄菓子屋ですよね。「丁子屋」も駄菓子屋ですね。今は屋根が壊れて休業中ですが・・・。
府中小の前にまだありますよ。看板もないのだけれど、子どもたちは集まっています。
ところで善隣幼稚園の通信に面白いのを見つけました。
http://www.zenrin-youtien.org/2011/03/03/%E3%81%B2%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A/
でもこのアドレスはどうしてこんな複雑なんだろう。
園児をもつご家庭用の通信記事の様なのですが、昔の記事を見つけるのは大変そうです。
タイトルは3月3日ひなまつりに市内を巡って、駄菓子屋でお買い物をしたというものです。
どこの駄菓子屋さんなのだろうか?
お二人にとっては懐かしいかもしれませんね。
今の善隣幼稚園は給食なんですね。昔はお弁当だったと思います。園舎も明るくてきれいですねぇ。
小学校近くの駄菓子屋さん、健在なんですね。
数年前、子供を連れていったときは、閉まっていて看板もなかったので、てっきり辞めてしまったとばかり・・。「Tなべ商店」と昔は看板があったと思います。考えてみれば、立地条件いいですものね。お客さんが絶えることはないのですから。建物は当時のままみたいですね。
幼稚園時代を少し思いだしなしたでしょうか。
無邪気でいいですね。そのうちに段々と小憎らしくなってきたりして・・・。
昔よりは人数も少ないかもしれませんが、町中にも結構子どもがいる方だと思います。
駄菓子屋さんは別途また。