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常陸国における源平合戦(1) <律令制と親王任国>


源平合戦(1)

 このブログのテーマは常陸国の源氏・平氏の戦いなどを書くものだが、その前提となる常陸国の成り立ちなどをまとめておきたい。

大和を中心に日本国が建国されたのを何時と見るかは諸説あり、ここではそこには踏み込まない。
しかし、大和朝廷が中国唐の中央集権的国家を見習って、律令制度を発令した西暦701年の大宝律令により全国に統一国家としての姿が確立したと考えられる。

少し前を辿れば、645年にそれまで権力を握ってきた蘇我氏を滅ぼした大化の改新の事件(中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺)が起こり、となりの朝鮮半島の白村江で663年に日本・百済連合軍として、唐・新羅連合軍と戦った。
しかし、ここで大敗してしまう。

この当時、日本にはまだ中央政権制度がなく、この大敗を機に隣りの大国・唐を見習って、この律令国家制度を強力に進めることを目指したのだろう。近隣諸国でこの唐の律令制国家を見習ったのは日本しかないのだ。
大雑把に言って、「戸籍に登録した人に土地を与え、税を納めさせ、兵役を負担させる」といった中央政権の樹立である。

また、この前からやって来ていた百済の人々やこの時に日本に逃れてきた多くの百済人の要人たちは、大陸から伝わっていた数多くの知識や技術を持っており、その後の日本国建設に大いに力を発揮してもらうことにもなった。

そして、この律令制度に欠かせない全国の律令国(今の県のような範囲)が整備されていった。
ただ、令制国が成立する前に、土着した豪族が世襲した国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)があったようだが、これが令制国になると、中央から派遣された国司が治める国の形式になっていった。

704年には全国の国印が鋳造され、平城京に都を置いた奈良時代の初め、713年に全国に風土記の編纂を命じている。
また同じ年の5月に全国の郡(こおり)・郷(さと)の名前を2文字の好字とするように通達が出された。
これにより国名が変ったのは以下がある。(幾つか段階があり、同時に成立したかは不明)
 ・ 上毛野国 ⇒ 上野国
 ・ 下毛野国 ⇒ 下野国
 ・ 木国 ⇒ 紀伊国
 ・ 粟国 ⇒ 阿波国
 ・ 火国 ⇒ 肥前国、肥後国
 ・ 豊国 ⇒ 豊前国、豊後国
 ・ 凡河内(おおしこうち)国 ⇒ 河内国、摂津国

また、律令制の制定によりそれまでの国が分割されて成立した国も幾つかあり、律令国家成立後に分割されて成立した国もある。
平安時代に入り纏められた延喜式の中に書かれた国は

畿内:5(大和国、山城国、河内国、和泉国、摂津国 )・・・5畿内と呼ばれる。
  畿内から各方面に7つの街道を整備し、それぞれの国府を結んだ。
<東海道>
・伊賀国 ・伊勢国 ・志摩国(8世紀初めまでに伊勢国より分立)
・尾張国 ・三河国 ・遠江国 ・駿河国 ・伊豆国(680年に駿河国より分立)
・甲斐国 ・相模国 ・武蔵国(771年、東山道から東海道に変更)
・安房国(718年に上総国より分立、741年に上総国に併合、757年再分立)
・上総国 ・下総国 ・常陸国
<東山道>
・近江国 ・美濃国 ・飛騨国 ・信濃国 ・諏方国( 721年に信濃国より分立、731年に再統合)
・上野国 ・下野国 ・陸奥国(7世紀に常陸国より分立) ・石背国(718年に陸奥国より分立、数年後に再統合)
・石城国(718年に陸奥国より分立、数年後に再統合) ・出羽国(712年に越後国出羽郡を割いて建立)
<北陸道>
・若狭国 ・越前国 ・加賀国(823年に越前国より分立)
・能登国(718年に越前国より分立、741年に越中国に併合、757年に再分立)
・越中国 ・越後国 ・佐渡国(743年に越後国に併合、752年に再分立)
<山陰道>
・丹波国 ・丹後国(713年に丹波国より分立) ・但馬国
・因幡国 ・伯耆国 ・出雲国 ・石見国 ・隠岐国
<山陽道>
・播磨国 ・美作国(713年に備前国より分立) ・備前国 ・備中国 ・備後国
・安芸国 ・周防国 ・長門国
<南海道>
・紀伊国 ・淡路国 ・阿波国 ・讃岐国 ・伊予国 ・土佐国
<西海道>
・筑前国 ・筑後国 ・豊前国 ・豊後国 ・肥前国 ・値嘉島(876年に肥前国より分立。数年後に再編入)
・肥後国 ・日向国 ・大隅国(713年に日向国より分立)
・多禰国(702年に日向国より分立、824年に大隅国に併合) ・薩摩国(702年に日向国より分立)
・壱岐国 ・対馬国
(以上はWikipediaより)

また、都からの距離で、畿内、近国、中国、遠国に分類し、国の規模で大国、上国、中国、下国に分類されていた。
延喜式に載っている大国は以下の13か国であった。
「大和国、河内国、伊勢国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、近江国、上野国、陸奥国、越前国、播磨国、肥後国」

さて、東国における源平合戦の話として忘れてはいけな親王任国(しんのうにんごく)の制度がある。

それは桓武天皇には子どもがたくさんおり、続く平城天皇及び嵯峨天皇も多くの子供たちがいた。
こうなると皇室としてあたえる役職が足りなくなって、養っていけなくなってきた。
そこで、西暦826年に、遠い国で大国といわれて比較的肥沃な地から常陸国、上総国、上野国の3国を選び、この国の税を皇族の費用に当てるために、親王(天皇の子供達の皇族)が直接統治する「親王任国(しんのうにんごく)」制度を作った。

最初は桓武天皇の3人の親王がそれぞれ3カ国の国守に選ばれ、この職を太守と呼び、官位は正四位下であった。
しかし、この太守は形だけのその国のトップで、中央にいて現地には行かなくても良いといった制度であった。
こんな遠い国に行かなくても都で優雅に暮らせるなら誰も行かないですね。
そこでこれらの親王任国では、実際の国司のトップに当る職は「介(すけ)」(常陸介、上総介、上野介)となった。

これがその後の将門の乱や平氏、源氏の勢力争いにもなって行くのです。

当時の国司の階級は
・守(かみ)・・・大国、上国には権守(ごんのかみ)1名が追加された。
・介(すけ)・・・大国、上国には権介(ごんのすけ)1名が追加された。
・掾(じょう)・・・大国には大掾(だいじょう)、少掾(しょうじょう)がおり、大国、上国には権掾(ごんのじょう)もいた。
・目(さかん)・・・大国には大目(だいさかん)、少目(しょうさかん)がいた。
・史生(ししょう)・・・大国に5名、上国4名、中国3名、下国2名。ただし定員は時代や場所でも異なっていたかもしれない。
 ※ 国司四部官・・・守・介・掾・目

(注)この国司も時代により変化し、しだいに都から離れずに親王任国と同じように名ばかりの守や皇族の費用に充てるための兼務などが増えてきます。これらの国司は「名代〔みょうだい〕国司、知行主〔ちぎょうぬし〕」などと呼ばれます。
また、代理を現地に置いたりもしていたようです。この代理は「目代(もくだい、めしろ)」と呼ばれており、上記の目(さかん)とは違います。
常陸国の国府である石岡の茨城廃寺ちかくに「小目代」という地名がありますが、この小目代は目代の代理人を指す言葉のようです。代理の代理が現地にいたという事でしょうか。

        (続く)





常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/05/21 07:30
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