常陸国における源平合戦(2) 源氏と平氏のはじまり

一般には源氏と平家という言い方をする場合が多いが、平家は清盛を中心とした伊勢平氏が都で華やかに暮らした時代の呼び名であり、それ以外は平氏と呼んで差し支えないと思う。
ここでは源氏・平氏という呼び方をする。
さて、源平合戦やその後の鎌倉幕府を開いた時代は、どうも平家(平氏)=貴族で、源氏=武士 という構図でとらえがちだが、これは少し間違っていると思う。また西の平氏に東の源氏という考え方も少し違う。
伊勢平氏にしても基本的には東国にやってきた桓武平氏の流れの中から伊勢に土着した平氏であるからルーツはやはり東国にあり、基本は東国武士と変らない。
まず、源氏と平氏のはじまりを探ってみよう。
前回書いたが、平安時代の西暦826年に東の遠国である大国の中から3国を親王任国とした理由は、桓武天皇はじめ、その後の天皇にも子どもが多くいて親王(天皇の皇子)たちに満足な職を与えられなくなったことが原因だと述べた。
しかし、子供でも親王になれたのは数人で、多くを皇族から民間に下ろした(臣籍降下:臣下の籍に降りる)のです。
平安時代以前にもこのようなことは行われていたようですが、臣籍降下するときに身分を証する物として皇室の源流であるという意味で「源氏」の名、平安京の皇室に繋がるという意味で「平氏」の名を与えたのです。
最初に源氏の名が与えられたのは西暦814年のに嵯峨天皇(桓武天皇の第2皇子)の皇子女8人に対してです。
その後も天皇の子供や孫に対してたくさんの源氏名が贈られました。
そのため、それぞれの系統を示すために嵯峨源氏、清和源氏など、江戸時代まで二十一流が存在します。
一方平氏ですが、これは825年に、桓武天皇の孫の代から始まった桓武平氏をはじめ、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏の四流だけです。子供の代ではなく孫の代からですので、呼び名も少し変えたのかもしれません。
でも、源氏になったその子供も源氏を名乗りますので、どちらが偉いなどと言ってみても仕方が無いでしょう。
桓武天皇にはたくさんの親王おり、以下にその主な系譜をWiki.から載せておきます。

ここには載せきれない系譜がたくさんありますが、ここの流れで重要なの嵯峨源氏と桓武平氏です。
源氏・平氏を研究するような方は細かく見ていく必要はあるでしょうが、ここは研究論文ではありませんので大きな流れだけを捉えていきます。
・嵯峨源氏・・・桓武天皇の第2皇子の嵯峨天皇の子供たちの中から814年に臣籍降下して源氏が誕生した。
・桓武平氏・・・桓武天皇のやはり皇子であった葛原(かずらわら)親王の子供、孫たちを825年に臣籍降下して平氏が誕生した。
源氏も平氏も基本的には、共に天皇の子供、孫、曾孫などが臣籍降下するときにこの氏を名乗ることが許されたということですので、後々白黒争うことになるというのもどうなんでしょうね。
平安時代のこの源氏や平氏は、中央(朝廷)で、いろいろな形で役職にも付いていたが、徐々にこれは廃れて行ったようだ。
代が後ろに行けば、そんなに役職などには就けず、没落して行った者も多いと考えられるし、役職も中央は無くなり、地方の役職の欠員がでれば、地方に出かけていく者たちも多くなっていったと思われます。
紫式部が天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生を「源氏物語」として書いたといわれるのですが、書かれたのは西暦1000年頃(1008年?)ではないかと見られています。
そして光源氏のモデルとしての最有力候補の一人に上の図表にある嵯峨源氏の源融(とおる)がいます。
源融は嵯峨天皇の皇子だったが、母親の身分が低く臣籍降下して源氏となったのです。
しかし数いた源氏の中でも出世頭ともいえ、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである「参議」になっています。
嵯峨源氏は名前が1文字の人が多いので、源姓で1文字の人物は嵯峨源氏の一派と考えられ、源融(とおる)の孫の源仕(つこう)は関東の武蔵国に下向し、仕(つこう) - 宛(あつる) - 綱(つな) など3代に亘って東国(武蔵国)で活動し、ご存知の大江山の酒呑童子で名を知られる頼光四天王の一人である渡辺綱はこの源綱である。
源綱は武蔵国足立郡箕田郷(現:埼玉県鴻巣市)に生まれるが、都に近い摂津国(大阪)の源氏に婿養子に入り、そちらで暮らすようになった。渡辺はその住んだ地の地名(摂津国西成郡渡辺)です。
臣籍降下が始まった当初は、多くの源氏、平氏も中央政権の中での貴族として暮らしていたようだが、これも次第になくなり、まだ開拓余地のたくさん残っていた東国への進出が始まるのだった。
また、東国で基礎を固めた源氏や平家もその子や孫の代には都に残っていた源氏や平家を頼って都での仕官などを願った者も多くいたようです。
(続く)
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