常陸国における源平合戦(3) 常陸国における平氏のはじまり

東国、特に常陸国における平氏の始まりを書いておきます。
一般には、889年に桓武天皇の皇子であった葛原親王の孫の高望王が臣籍降下して宇多天皇より平氏姓を賜ったところから始まります。平高望(たいらのたかもち)となって9年後の898年に高望は上総介になります。
高望は、都ではこれ以上いても出世は望めないと思ったのか、遠い上総国(今の千葉県東南部)の未知の領土にあこがれたのか、三人の子供を連れて上総国へ赴任してきたのです。(当時は必ずしも現地に赴任しなくてもよかったようです)
葛原親王は天皇にはなれませんでしたが、親王に与えられる最高位である一品に叙せられており、式部省(文官の勤務状態や品行などを取り調べたり、官を授けたりする機関)の長官という地位にあり、親王任国の常陸国や上野国の大守を歴任していました。
そして子供は長男・高棟王と次男・高見王の二人男子がおり、長男・高棟王は臣籍降下して平氏を名乗りますが、子孫は高棟王流堂上平家として京都での公家平家として栄えます。
しかし、次男の高棟王は無位無官のまま早世してしまい、その子の高望も臣籍降下して京の社会で生きていこうとしますが、親がなくなっていて後ろ盾もなく、都の公家社会からは没落してしまったようです。
これが平氏に臣籍降下した高望(たかもち)が9年後に上総介となって、京に残らずに東国へ新天地を求めた背景ではないかと思います。ただ、平家物語の元となった琵琶法師の記録には京の都において民部卿宗章の謀反を鎮圧し功績で、上総介となったが、これは当時東国で群盗などがたびたび蜂起していたため、これを鎮めるために選ばれたのではないかとも言われているようです。
しかし、この流れが東国における平氏となり、また後の子孫である伊勢平氏から平清盛が出たのです。
さて、平高望が上総介として東国に一緒に伴ってきたとされるのは正室・藤原良方娘との間に出来た子供、長男国香(くにか)、次男良兼(よしかね)、三男良将(よしまさ、又は良持:よしもち)の三人です。
平高望は、その後902年に西海道の国司となり大宰府に移りますが、三人の子供たちは上総、下総、常陸国に土着して領地を拡大し、武士団の形成も為されていきます。
平高望が大宰府に移った翌年の903年に大宰府で菅原道真が死去していますが、丁度その頃、東国では平将門が生まれています。将門は高望の三男・平良将の子供です。

当時開拓した土地をどれだけ自分の物に出来たかどうかはわかりませんが、この平高望や三人の息子が来る前に、地元にはすでに、強大な力を持つ豪族となっていた人物がいました。
常陸国でのその筆頭が、源護(みなもとのまもる)という人物ですが、居住地は真壁(羽鳥地区?)あたり、筑波山の西側から北側にかけて広大な領地を有していたといわれています。
当時、現地の長官職である常陸大掾(だいじょう)を任されていたようで、都から任命されてきた介などよりも職としては下なのですが、領地や馬、財宝などを貯えていたようで、上総介としてやってきた平高望親子が勢力を拡張していくためには、この地方の豪族と手を組んだり、血縁関係を結んだりしていく必要があったようです。
源護については、詳細は残されていませんが、名前が1字の源氏であるので、嵯峨源氏の一族(源融の系列か?)ではないかとも考えられています。
1)長男の国香(くにか)はこの常陸大掾の源護の娘を妻とし常陸国に進出します。
この国香は将門の乱のときに死んでしまいますが、その子孫が代々常陸国の大掾職を継いで大掾氏を名乗るようになります。また、平清盛を代表とする平家と言われるのはこの国香の子孫で伊勢に移った平氏です。
2)次男の良兼は千葉県九十九里の屋形を本拠地とし、上総と下総に領地を持っていたといわれます。この屋形は栗又川の入口にあって、内陸には大きな内海(椿の海)が広がっている場所です。父の高望が902年に東国を去った後は父の後を継ぎ上総介となり、領地を広げて行ったようです。しかし、将門の乱が起こり、兄の国香が殺されてから、将門と対立し、多勢の勢力で戦を挑むも将門に負けて下野国府ににげこみます。このあたりは次回の将門の乱のほうで書きたいと思います。
3)三男・良将(良持)は、やはり源護の娘婿となり、下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開拓して領地を広げていきます。しかし鎮守府将軍となって陸奥国胆沢城に赴任が、比較的若くしてなくなってしまったようです。その後をまだ若い将門が継いだいたのでしょう。(将門記で次回取り上げます)
ただ、平将門がおこした乱で敗れたため、良将の正当な子孫はいなくなりました。
このように高望王の子孫たちは坂東に地盤を持つ有力豪族として発展していくことになります。
4)平高望には其の他にも、四男・良繇(よしより)や側室の子どもである五男・良文以下、良広、良持、良茂、良正などがいました。
これらの人物もその後遅れて関東にやってきて土着した平氏として名を残した人物が出てきます。四男・良繇については詳細が不明でくわしいことがわかりません。
ただ、関東地方の平氏として重要なのは、五男の平良文(よしぶみ)です。良文は、兄弟三人とは遅れて関東地方にやって来て、当初武蔵国(村岡)を基盤とし、下総にも進出しました。そして、その子孫が後の千葉氏、三浦氏、大庭氏、梶原氏など「坂東八平氏」と呼ばれる有力武士団となっていきます。
(つづく)
この関東における源氏と平氏の始まりは、余り歴史書には書かれませんね。
どうしても都の政治が中心であるために、このようなことが本当は身近なのだけれどどこかに忘れ去られてしまいます。
こんな話も面白いと思うのです。
どうも記事が長々となってしまい一般受けしないでしょうが、興味がおありのところがあればまた続きに目を通してください。
早くコロナ収束してほしいです。