常陸国における源平合戦(4) 平将門の乱(1)

西暦898年、平高望は3人の息子を伴って上総介として東国にやってきた。
どのルートを通って上総国に来たのかは定かではない。
しかし、当時上総国へは古東海道をきたとすれば、伊豆半島横須賀ちかくの走水(はしりみず)から上総国府(市原)に近い富津岬へ舟で渡ったはずだ。
もしくは舟に乗って黒潮に乗って房総半島を回って北上し、千葉県の九十九里浜側に上陸したのかもしれない。
この九十九里浜の現在の横芝光町屋形(やかた)に平高望や次男の良兼が上総介として住んでいた屋敷があったため屋形(館)の地名となったのではないかともいわれている。
ここからは栗山川をさかのぼれば、下総や上野国などへのアクセスも良い。
また古代から多くの古代人が使った丸木舟が遺跡として多く発掘されており、食料にも恵まれた土地だったと考えられる。
さて、当時の東国での記録はあまり残されているものも少なく、皇族の子孫として都で生まれ若いころに東国にやってきた国香たちは都の生活を知っている。
これを第一期生とすれば、この一期生の子供たちは東国で生まれた最初の平氏で、東国の平氏の第二期生といえるだろう。
この者たちはどんな思いで、東国で過ごし、また都に居る親戚たちのことを思っていたのだろうか。
これについては想像するしかない。
東国で起きた大事件の主役「将門」はこの第二期生だ。
数少ない記録でもある将門記を読みながらその当時の東国での武士団結成に向かう源治・平氏の動向を見ていきたいと思う。
勿論逆賊となり大和政権・朝廷からは皇室に歯向かった大悪人のレッテルを貼られ、表舞台では抹殺された記録も、東国庶民の間では神社に祀られ、英雄としての伝説などが残された。
将門記は将門を英雄として書かれたものであるから、史実とは違った部分も多々あるかと思うが、そこは歴史の先生方に任せて、事実と違うところもありそうだという前提で読んでいただきたい。
また東国の源平、藤原氏などの武士団の発生には欠かせない要素であろう。
将門記も原文は残されておらず写本が残されているだけだ。
また将門の死(940年)後どの位経ってから書かれたものかははっきりせず100年くらい後ではないかと考えるのが妥当かと思う。
作者も近くの僧侶ではないかなどとも言われ、正確にはわかっていない。
原文(写本)は難読な漢文で書かれており、ところどころに欠文があって解釈も分かれる。
これから書く内容もただの参考程度に読んでいただければと思う。
文学書としては、大岡昇平、吉川英治、海音寺潮五郎、村上春樹、赤城宗徳さんや数多くの歴史学者などが書いているので、興味のある方はこれらの小説などを読んでください。
ここでは私の所属している「ふるさと風の会」の「打田昇三」氏の書かれた「打田昇三の私本将門記『罪と名声』」を参考とさせていただきました。
平高望の三人の息子たちは、当時、筑波山の北西部に巨大な勢力をもっていた源護(みなもとのまもる)と手を組むことを考えた。
当時源護は常陸大掾(だいじょう)の職を任されていたという。
長男の平国香はこの源護の娘を妻にして(次男の良兼と娘を争ったという話もある)、大掾職を継ぎ、石田に居を構えており、水守(みもり)に館を持っていた。
水守は、現在の学園東大通りが国道125号線に交わる(田中信号)の少し南側のつくば市水守(みもり)であり、平安時代中期には「水守郷」と呼ばれていた。
恐らく国香は条里制などの管理をし、ここの田の水利の実権を持っていたのだと思われる。
ここが国香死亡後の将門に対抗する人々の初期の拠点だったようだ。
国香の住まいは常陸国真壁郡石田にあったといわれ、現在の筑西市(旧明野町)東石田(東石田公民館と隣の長光寺あたり)だとされている。
将門の乱に館は焼かれ、国香も亡くなった。
将門記の記述を元にして時代を見ていこう。
1) 将門は西暦903年、陸奥鎮守府将軍・平良持の三男として下総国で生まれた。
2) 母親は下総の名族・犬養氏の娘である。
3) 父は鎮守府将軍であったが将門のまだ10代の頃に亡くなり、将門が父の後を継いだらしい。
4) 伯父の国香の嫡男・貞盛は都に上って朝廷保有の馬の飼育・調教にあたった官職である「馬寮(めりょう/うまのつかさ)」として勤務していた。
5) 将門も都に上り、亡き父の縁故をたよって太政大臣・藤原忠平に仕え、天皇の護衛官である「禁裏瀧口(きんりたきぐち)」として約10年間勤務した。
6) このままでは出世は出来ないと思ったか、将門は朱雀天皇の即位の時に、職を辞して下総へ帰って来た。
ここからは将門記の記述による
<私闘の始まり>
原文には欠落が多く、何故事件が始まったのかは推論しかない。
伯父の国香や良兼とは、どうも女性に絡んで931年頃から不仲になっていたという。
この女性が絡む事案については諸説あるのでここは不明としておきたい。
<将門が迎撃される>
西暦935年2月4日、外出から館に戻る途中、野本で源護の息子である「裏」「扶(たすく)」により襲撃を受けた。
このとき、少人数しかいなかった将門の軍勢は風も味方して、この源護の息子たちの軍勢を打ち破ってしまいました。
<将門が反撃を開始>
襲撃を受けて4日後には、将門の軍勢は勝ちに乗じて敵となった勢力の拠点、野本・石田・大串・取木などの館や近隣の民家などにも火をつけ、おりからの強風で火の勢いは凄まじく、出てきた者たちは次々と矢を放たれて死んでしまった。
雑兵の多くは農民であり、彼らは武器を棄て逃げ惑ったのだろう。石田に居た長老国香もこの時に焼死したという。
<貞盛の苦衷>
この国香の死を知らされた都にいた嫡男の貞盛は、しばらく動きも取れなかったが、しばらく後に許可を取り常陸国に帰って来た。
父親・国香の屋敷はすでにひどい焼け方で、国香の遺骨もわからない。
しかし、どうにか遺骨らしきものを捜して現地に埋葬したようだ。
ただこれも「伝・国香の墓」として近年まで石田に残されていたが、これも伝承でしかない。
また貞盛は母親の行方を捜すが、これも近隣に聞きまわって、ようやく母親、妻などの行方を知ることができた。
貞盛は父親の敵である将門を攻めたいところではあったが、戦の原因が護の息子たちが最初に将門を襲撃したためであり、それに巻き込まれて死亡したことを知り、すぐには反撃せずに和睦して、自分は都に戻ろうとしたのだった。
<良正の画策>
和睦を考えていた貞盛であったが、ここに割り込んできたのが平良正である。
良正は高望の正妻の子ではなく、妾の子といわれていたが、最初に将門を襲った源護の子供である「扶(たすく)」とはどうも姻戚関係にあったようで、国香の弟の良兼とも手を組み将門を殺そうとして走り回っていたという。良正については、最初の襲撃の時から扶の仲間として加わっていたという説もある。
ただ、良兼は居住していたのが東の端の九十九里浜近く(横芝光町の屋形)であったので、この争いには参戦せずしばらく傍観していたようだ。
<川曲村の戦い>
平良正は桓武平氏の仲間ではあったが、こちらの源氏一派と血縁関係を持ち、源氏の見方をして、将門を攻めたのだ。
平氏同士の内輪もめという構図のように思いがちだが、源護一派と良正が源氏の仲間として加わり将門に対抗するという、関東の最初の源平合戦ともなった。
この護や平良正の動きは将門が知るところとなり、将門軍は935年10月11日に川曲(かわわ:下妻市西南の鬼怒川右岸あたり)に出陣した。
この両軍が日の戦も将門軍の勝利で、良正たちの死者は60余騎、山王神社も焼け、良正に味方した者たちはみな散りじりに逃げ惑ったという。
さてこの続きは次回の載せるが、将門記では、平氏の長男である平国香は、この争いが始まってすぐに死んでしまう。
東国における(特に常陸国における)平氏の系列は、この国香から始まっているといっても良く、また清盛に代表される伊勢平氏も国香の子孫である。
将門記は平将門が中心であるので、残念だが、国香についてはほとんど触れられていない。
あっけなく焼き打ちにあって死んでしまったようだ。
私の住む常陸国の国府があった石岡では平福寺にある五輪塔の真ん中にある大きな墓が国香のものという伝承があるが、住んでいたのは筑波山の西側の石田であり、常陸国国庁には恐らく通うだけだったのだろう。
墓も実際のところは存在するかどうかも怪しい事になる。
(将門記 続く)
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