fc2ブログ

常陸国における源平合戦(5) 平将門の乱(2)

masakado2.png

将門記の前回の続きです。

<良兼の介入>
国香の弟の平良兼は国香と同じく源護(まもる)の娘を妻にしている。また日頃から将門とは不仲であったようだ。川曲村の戦いで破れた平良正は将門の悪口を散々と手紙に書き良兼に送って一緒に将門を成敗してくれるように懇願した。常日頃仲の悪い将門の悪口を信じた良兼はすぐに良正や護の援護を約束した。

<下野国境の戦い>
 良兼はすぐに軍勢を集めて、周りの役人の制止も振り切って、936年6月26日に上総より常陸国を目指して出立した。香取神宮に戦勝祈願をして利根川を渡り、江戸崎辺りで休憩し、阿見・荒川沖辺りを経由してつくばの拠点「水守」の平良正の館に到着した。
そして、到着したのに良正らが迎えに出なかったことにも腹を立て、国香の嫡男の貞盛が将門攻略に参戦していないことから、貞盛にも戦に加わるように説得したのだった。こうして良正、良兼、貞盛の連合軍、数千が下野国に集ったのだ。将門はまさかこんな大群が押し寄せてきていると走らず、敵が集っているとの情報で、100騎ほどで偵察にやってきた。
将門の軍勢に気がついた良兼の軍勢が勢いよく将門軍に襲いかかろうとした。しかしここでも将門軍の徒歩部隊が、良兼軍の先頭部隊に肉薄して迫り、先手を打って攻撃し、人馬80余りが倒された。
これを見た良兼軍は総崩れに成り、下野国府の庁内に逃げ込んだ。このときの下野国府は国分寺町(現下野市)と栃木市の中間あたりにあった。

<将門、伯父を見逃す>
 将門は伯父・良兼が逃げ込んだ下野国庁を取り囲んでいたが、身内の伯父は殺すにしのびなく、良兼だけを逃すために、西側の包囲網を解いた。これは良兼だけを逃がす予定だったが、どうも部下の多くの兵が一緒に脱出してしまった。
将門はこの戦は伯父の上総介(良兼)側が、道理に反して仕掛けてきたことであると近隣にふれ回り、下野国庁から都にも将門が書き残した顛末書が送られた。
しかし、この前に裏にいた源護から将門への告訴状が京都に送られてしまっていたのだ。

<将門の上洛>
 事件が起ったのは承幣年2月4日、源護が書いた将門の告訴状に対して京の役所が動いたのは12月29日。またこの公文書が関東地方の国府に届いたのが翌年の9月7日だという。随分のん気なもののように思うが、当時の役所の動きや手紙の配達速度などはどうなっていたのだろうか。ともかく、送られてきた書状は、「近衛府の下級役人である舎人(とねり)を関東に下して事件の検証を行う」というものであった。将門はこれはまずいと思ったか、自らの意見を述べるために上洛したのだった。上洛した将門は以前勤めていた都の役人を頼りに、左近衛府に出向き、事情を説明し、これが天皇まで届いて説明内容が了解されてしまった。次に検非違使庁に乗り込み、この事案は「厳重注意」で言ってみれば無罪放免となったのだ。また、都では東国からきた英雄のように扱われたらしい。

<恩赦にあい帰国>
 承平7年(1937)4月7日に行われた恩赦により多くの罪人と共に恩赦が下され、将門は一切の罪から解放され、5月11日に都を発って下総へ帰って来た。

<良兼の襲撃>
 下総国へ戻ってきた将門は長旅で疲れて横になっていた。その様子を聞き及んだ良兼はこれはチャンスと見て、8月6日に下総と常陸の境にある「子飼(小貝)の渡し」に出陣してきた。
前回負けていた良兼は今度の戦では、上総介だった祖父の平高望と自分の父親の鎮守府将軍・平良将の似顔絵を陣頭に掲げて戦を挑んできた。
将門もこれにはどうすることも出来ず、また見方も少なかったため合戦せずに逃げ出したようだ。その機に乗じて良兼軍は将門の支配地域の農家などを焼き払い、これが将門の仕業であるように見せかけたのだ。このため、将門はこの地の農民たちから恨みをかうことになってしまった。

<敗残の将門>
 戦いに敗れた形になった将門はすぐに軍勢を整えて4月17日改めて堀越の渡しに布陣し、良兼軍と対峙した。しかし、思わぬ事態が起った。総大将の将門は長旅の疲れか出たのか病気(脚気?)のため動けなくなってしまった。そのため将門軍は戦わずして引き返してしまった。
良兼も戦いが無ければいつまでもこの地の残っていることもできずに下総の屋敷に引き上げた。

<葦津江の遭難>
 将門は病で戦えないために、複数の妻子等と共に、葦津江の岸に避難していた。妻子等は岸辺近くに留めた船に乗せていたが、どこで情報が漏れたか、良兼軍に見つかり、襲撃されて皆殺しにあってしまった。妻には良兼の娘も居たので、彼女は良兼の陣営に連れ戻された。現在桜川市木崎の「后(きさき)神社」にこの時の妻と思われる女性の木像が祀られている。
この良兼の娘は将門のことが忘れられず、弟たちの助けを借りて、上総国の良兼の屋敷を抜け出し、下総国豊田郡の将門のところへ戻ってきた。

<弓袋山の逆襲> 
 妻子たちを奪われ、敵となった上総介・良兼が常陸国の筑波山麓の自分の領地にやって来ているとの情報を得た将門は、9月19日に平真樹などの援軍を入れて1800余騎の軍勢を集め、良兼の領地である真壁郡服織(現:筑西市真壁町羽鳥?)の宿を襲撃し、周辺の領地のことごとく火をつけ焼き払ってしまった。この襲撃で良兼は何とか難を逃れ、近くの山に逃げ込んだ。 良兼の行方を捜していた将門軍は9月23日にようやく筑波山の東北部に広がる谷間に潜んでいるという情報を得て、この周囲を取り囲み、良兼陣営に挑戦状を矢で射込んだ。しかし、この戦のその後については将門記には詳細な記述がなく、将門軍では酒に酔って敵に討たれた者が7人と牛10頭が死んだとなっていて、真樹の陣営は負傷者のみがいたとなっており、良兼陣営の被害はわからない。結局敵陣本部までたどり着けずに将門は兵を引いたという。とうじの兵士は農民の兼務がほとんどで稲の収穫期とも重なり兵を引き上げたものかもしれない。合戦のあった弓袋山は恐らく真壁町側にある湯袋峠付近ではないかと思われる。

<良兼の執念>
この合戦のすぐ後の11月5日中央政府から関東一円の諸国に将門の敵となっていた平良兼、源護、平貞盛、良兼の息子(公雅、公連など)を捕らえよ。という通達(公文書)が出された。しかし、この平氏同士の内輪もめと近隣諸国も見ており、この通達はあまり効果が無く、かえって良兼と周りの役人たちとの結束が深まっていった。

<密偵子春丸>
 将門の館で走り使いを務めていた丈部子春丸(はせつかべのこはるまる)という者がいた。この男が商売取引かなにかで国香の屋敷のあった石田庄(当時は国香の嫡男の貞盛の領地)に頻繁に出入りしていた。これを知った良兼は彼をうまく利用して将門の情報を得ようと子春丸を呼び寄せ捕えさせた。そして言葉巧みに将門の情報を教えてくれたらいろいろ褒美や出世も約束してやろうと持ち掛けると、子春丸はスパイとして良兼の息のかかった農民をつれて戻り、情報をこの農民を使って連絡させることを約束し、絹2反をもらって栗栖院常羽御厨の近くの自分の家に戻った。そして将門館の見取り図や出入り口の兵士の数などの情報がすべてこの農民スパイから良兼の許に知らされた。

<石井夜討>
 この石井というのは現在の岩井のことである。ここに将門は新たに営所を築いていた。この営所の情報が良兼に漏れてしまった事になる。この情報を得た良兼は、すぐに精鋭の80余騎で承平7年12月14日に夜に夜襲の軍勢を差し向けた。亥の刻(夜10時)頃、軍勢は結城郡法城寺付近の街道に出てここから南下して将門の本陣(石井館)を突く計画であった。しかし将門の部下の一人が法城寺(現在も寺は結城市内にあるが、当時は鬼怒川大橋の西北の八千代高校近辺にあったらしい)にいて、この奇襲を察知して、石井館に知らせた。しかし、ここには将門軍として戦える人数は10名ほどしか居らず、一同あわてたが、将門は鬼のような形相で味方を奮い立たせ自ら夜襲の軍勢に切りかかり、第一の矢で敵の指揮官の多治良利を討ち取り、ひるむ敵の軍勢の40余名を倒してしまったのだ。こうして敵の軍勢は逃げて行ったという。その後、子春丸の密偵(スパイ)が明らかになり、翌年正月に子春丸は処刑された。

<貞盛追撃>
 源護から国香が大掾(だいじょう)職を引き継いでいたが、国香がなくなったため、この職は息子の貞盛に引き継がれていたらしい。貞盛は都に戻って出世を願うと共に、将門を反逆の罪で訴えることを考え京に上る決意をした。そして承平8年2月に貞盛は良兼には内緒で東海道ではなく栃木県側から東山道経由で都へ向かった。これを察知した将門は、都に自分のことを換言すると感じて、これを阻止するため100余騎の軍勢でこれを追いかけた。将門軍は2月29日に信濃国分寺近辺で追いつき、千曲川を挟んで両軍が合戦を始めた。貞盛側は武将・他田真樹(おさだのまき)が戦死、将門側も武将・文室好立(ぶんやのよしたつ)が矢傷をおった。貞盛は機を見て山中に隠れてしまい、将門も諦めて常陸国に兵を引き上げざるを得なかった。
都にどうにかたどり着いた貞盛は朝廷に将門を反逆罪で告訴したのである。

<貞盛の窮状>
 貞盛の訴状により、朝廷は将門の尋問を命じる公文書を下野国府に下した。そして貞盛は6月中旬に京から下総・常陸へ戻ってきた。しかし戻ってくるとこちらの東国では将門追求の機運は無く、しばらく後に伯父の良兼が病死してしまった。10月に平維扶(たいらのこれすけ:桓武平氏、高棟流)が陸奥守として赴任途中、下野国府に立ち寄った。貞盛は陸奥国に同行を願い出て許可された。これは、この機会に将門から逃げるためだったと思われる。貞盛の動きを知った将門は今度こそはと貞盛を阻止しようと軍勢を差し向けて貞盛を探したが、見つからず。将門の動きを知った維扶は貞盛を見捨てて陸奥国へ出発してしまった。
そしてしばらくはお互いの領地で比較的平穏に時は過ぎて行った。

<武蔵国庁の紛争>
 さて、当時下総、常陸などは平氏が次第に勢力を拡大し、平氏同士の争いが起っていたが、武蔵国には源氏が役職を担っていた。そこに承平8年(938)2月に揉め事が起った。武蔵権守を任命された與世王(おきよのおおきみ)と武蔵介を任命された源経基(みなもとのつねもと)が武蔵国にやってきたが、当時地元で権力を握っていた足立軍郡司と武蔵大掾を兼務していた武蔵武芝(むさしたけしば)とが対立した。これはまだ正式な任命状が届かないために現地での受け入れを拒否されたことが理由らしいが、どうも現地では武蔵武芝は信頼されていたようで、今迄あまり現地の政務に口出ししてこなかった中央からの権守や介が、権力を笠に口出しして利益を横取りしようとしたのかもしれない。妨害された與世王と源経基は怒り、国府の兵を集めて武蔵武芝を攻めたため、武蔵武芝は身を隠したのだが、その居なくなった武芝の屋敷やその周辺の民家を襲い、自分たちの役所の物として奪ってしまったのです。これにより地方に着任してきた役人たちの中には、朝廷の権力を背景に夜盗のような存在となった権守や介などが結構居たのかもしれません。これにより武蔵国の民は疲弊し、これを何とか訴えるべく、国府の下級役人の中から上司の失政を訴え、反省を求める書状を武蔵国の庁舎の前に落とし、これにより悪事が武蔵国中に知れ渡ったのです。

<将門、調停に乗り出す>
 武蔵武芝も自分の財産を横取りされ、その返還を求める訴えを出していたが、まったく聞く気のない與世王たちは、これを押さえつけようと軍事行動の準備をしていた。しかし源経基はあまりひどい與世王たちを面白く思っていなかったらしく、その不満が将門の耳に入ったのである。
そして、天慶2年(939)2月頃にこの調停に向かうため、手勢を率いて武蔵国府(埼玉県大宮市)に向かった。ここで武蔵武芝の隠れ家に行って、援護を申し出た。これに喜んだ武芝から将門は権守や介の居場所が2人は軍勢と家族も連れて比企郡の狭服山(入間郡狭山か)に登って居ると聞いたが、将門と武芝は国府に向かう事にした。国府に到着すると、與世王は国府に戻っていて、源経基は居なかったが、将門は武芝と與世王の仲裁のために酒宴を開いた。しかしこの席にいなかった源経基は仲間はずれにされたと思い、その後、将門を反逆者として訴えるきっかけとなってしまうのだった。

<経基の狼狽>
 将門を味方につけた武芝の軍勢が、源経基の陣営を見つけ、それを取り囲んだ。慌てふためいた経基やその軍勢は四方に逃げ出し、その騒動が武蔵国府に伝わり、この武蔵国の騒動はやがて、武芝にそそのかされた将門が、源経基の暗殺を企てている伝わり、源経基から都の太政官に訴えが奏上されてしまった。困った太政官は、この詳細を昔将門が都で仕えていた藤原忠平に調査するように命じた。これはすぐに将門のところへも書状が届き、これにすぐ反論する書状(謀反の事実が無いこと)を、常陸、下総、下野、武蔵、上野の5カ国から国府発行の証書として発行してもらったのである。

<乱人。藤原玄明>
 また当時、常陸国東部の霞ヶ浦沿岸地方を拠点として農地を経営していたと見られる藤原玄明という者が居た。将門記では乱人と表現されているが、この者は領地の収穫物を思うまま横領し、国府には租税を一切納めず、国府の常陸介・藤原維幾はこれに対し何度か公文書で国府への出頭を通告したが、玄明は一切無視して従わなかった。玄明を捕らえるべく維幾は国府の役人を派遣したが、この知らせを受けた玄明は妻子を連れて屋敷から逃げ出した。玄明が将門のところに逃げたという噂を聞いて、将門に身柄引き渡しを要求したが、将門は玄明を匿い、国府からは何度も玄明の引き渡し要求を受けたが、「たしかに玄明はきたが、もうここにはいない」と突っぱねた。

<常陸国庁襲撃>
 一方、将門が命を狙っていた平貞盛が常陸国庁に匿われているらしいという知らせがあった。そこで天慶2年(939)11月21日に玄明の軍勢を含め1000騎ほどで常陸国の国庁(現石岡市)に向けて軍を進めた。一方国府側は3000騎ほどの軍勢で待ち構えていた。石田方面からどのルートでやってきたかは明らかではないが、3方から攻めたとか、小貝川~桜川を超えて恋瀬川畔にやってきたのかもしれない。国庁からはこの軍勢を見ることができたのだろう。そして、将門から国庁へ使者を送って、「国府攻撃は考えていらず、誤解されている玄明に同情している。釈明させてもらい、今まで通り常陸国内に住むことを許可願いたい。」しかし、貞盛を匿っている国司(常陸介)・藤原維幾は、敵の数がかなり少ないとみて、「その要求は受け入れられないのでここで戦って決着をつけようではないか」などと宣戦布告。どうも将門が奇襲攻撃を掛けたというわけではなさそうだ。それではと、将門は国庁に一斉攻撃をしかけた。数で3倍もの軍隊を持ちながら、戦争経験のほとんどない国庁の兵士たちは、将門の軍勢に何もできずに全員打ち取られてしまったという。どうも庁舎の敷地内に国府軍は集まっていたらしい。それに対し、将門軍は周りの民家などに火をつけ、300余戸の家々はたちまち燃え広がり、その火は国庁にまで迫ってきたらしい。これに驚いた国府の役人たちはたちまち降伏してしまった。この時将門の軍勢は国分寺や国分尼寺などにも押しかけ、乱暴を働き、寺宝をみな奪ってしまったのです。また国庁内には常陸国内から集めて、都に置く予定だった絹織物が1万5千反も積まれていたという。これらもすべて将門の軍勢が奪い取ってしまった。しかし肝心の貞盛はこっそりと逃げ出していて、ここにはいなかった。11月29日まで将門軍は国府を占拠していたが、捕虜となった常陸介の藤原維幾から、常陸国の国印と国庫の鍵を取り上げ、国司たちを捕虜として下総国豊田(鎌輪)に引き上げた。捕虜と言ってもそれほど待遇はひどくはなかったようだが、常陸介を捕虜として連れて行き、また国印を奪ったことは、朝廷に対して言い訳のできない反逆行為を将門が行ったとのみなされてしまう結果となってしまった。

<東国制覇の野望>
 常陸国の国司の代理を捕虜にして石田の館に戻っていたところへ、前に登場した武蔵国権守の與世王(おきよのおおきみ)にやってきた。そして「この勝利は素晴らしいが、中央政府は黙っていないでしょうから、この際坂東8か国を征服しませんか? 私も援護します。」とささやいた。これを聞き、将門は、自分も皇室の末裔である。近隣諸国の国印を奪って、都からきている役人などは追い出して、坂東8か国の兵や民を服従させれば、都にも攻め入ることができるのではないかと野望を抱くようになった。そして、天慶2年(939)12月11日将門は軍勢を下野(しもつけ)国へ向かわせた。下野国府は現在の栃木市にあった。将門の本拠地からは直線距離で50kmほど。平穏にのんきに暮らしていた下野国庁は国司交代のために、藤原公雅(きんまさ)、大中臣全行(おおなかさとのまたゆき)、新旧2人の国司が庁舎にいた。そこに立派な武士軍団が勇ましい格好で庁舎を取り囲まれ、国司2人は、常陸国の話が伝わっていたので恐ろしくなり、将門にひれ伏して自ら下野国の国印と国庫の鍵を渡してしまったのです。将門の軍勢にまったく手も出さずに奪われてしまった下野国。2人の国司は恨み言を残して、家族を連れて追い出され都に寒い中を徒で戻っていったという。

<新皇僭称>
 2つの国を奪った将門が次に向かったのは上野(こうずけ)国だった。向かったのは翌年(940年)2月15日。この時上総国は上野介・藤原尚範がいた。ここもほとんど抵抗できずに上野介は捕えられ、2月19日に都へ追放されてしまった。国印などは下野国では国司みずから渡したとなっているが、上野国では将門軍が奪い取ったというから多少の犠牲者は出たのかもしれない。
その頃南海において藤原純友が反乱を起こしているが、この純友はこの上野介・尚範の甥である。東国だけではなく、南海でも朝廷の政治に不満がたまっていたのかもしれない。将門の本拠地である下総国も含め4か国が将門の手に入ったのである。それも天皇家の蓄財の親王任国が半分(常陸、上野)を占めているのだから天皇家の皇族たちが慌てたのも無理はない。将門軍は上野国の庁舎を囲む塀の門をすべて閉じ、軍勢で固めた。その時将門の前に「我は八幡大菩薩のお使いである」と名乗る一人の巫女があらわれ、「朕が位を蔭子(おんし=名門の子孫)平将門に授け奉る。その位記(証拠)は、左大臣正二位菅原朝臣(菅原道真)の霊魂(天神様)が示し奉る・・・・」と神託を述べたという。将門はこれを良いことに「新皇(しんのう)」を宣言した。

<摂政忠平への書状>
 将門は都で仕えていた主君である、摂政・藤原忠平へ手紙を書いた。そこには今までのいきさつを将門の立場で説明し理解を求めたものであった。この手紙の実在については明らかでなく後に付け加えられた創作という見方もある。ここにはこれまでの顛末を将門の立場から詳細にのべているが、ここに紹介するのは長くなるのでやめておく。

<将平・員経の諫言>
 将平は将門の弟で大芦原四郎と呼ばれる人物で、員経(かずつね)は伊和員経であり、将門の側近である。この2人があまりの将門の高まる思いを諌めようと、「帝王の地位は人事の及ばない所にあり、天から与えられたものしかなれません。このままでは後世の人々から非難されましょう。どうか、思いとどまってください」と諫言した。これに対し将門は「将門は坂東一帯に武名を轟かせ、戦上手は都にまで聞こえている。こんな時代は必ず合戦に勝った者が君主となる。力のある者が制するということは、異国にも例がある。今我が軍は漢の高祖の軍にも劣らない。今都からの軍勢が攻めてきても足柄山と碓氷峠の関を堅守する自信もある。何も心配することはない。」といった。一旦はこれで引き下がった側近の員経は、また後日、将門に次のように諫言した。「このままでは国家が争乱に巻き込まれ、危険となります。古来から天命に逆らえば忽ちにして禍が生じ、帝王に背けば重罪はまぬかれません。どうか新皇におかれましては耆婆(ぎば:古代インドの名医で反逆に走る兄を諌めた)のような方々のお言葉に耳を傾けて下されますようお願い申上げます。」これに対し将門は「優れた才能も、ひとによっては己の身を滅ぼす罪ともなるが、人によっては身を助ける喜びともなる。君子となった自分が、一度決めた言葉は取り消せない。実行するしかないのだ。」と

<新政府の構想>
 将門や、武蔵権守・與世王や藤原玄茂らは新皇の宣旨(せんじ)として、坂東一帯の国司の任命を行った。
下野守:平将頼(将門の弟)
上野守:多治経明(将門の重臣)
常陸介:藤原玄茂
上総介:與世王(武蔵権守と兼務?)
安房守:文屋好立(将門の重臣)
相模守:平将文(将門の弟)
伊豆守:平将武(将門の末弟)
下総守:平将為(将門の弟)

<京中の騒動>
 将門の新皇樹立で、諸国の国司たちは震え上がり京に逃げ帰ってしまった。武蔵や相模など国司が不在となり、将門は易々と国印や鍵を抑えることができ、国府に残っていた役人にはそのまま仕事をさせた。そして都には「平将門が新たに天皇の位に就く」と書状で申し送った。
朝廷は大慌て、天皇(61代朱雀天皇)もまだ10代と若く、仏様に自分の命があることと、この騒動が無事に治まるを祈るばかりだった。また神社仏閣では邪悪の追放、悪鬼退散を祈願した法要などが頻繁に行われた。将門は京の都で反逆者として恐れられる存在となってしまったのです。

<常陸掃討>
 相模国から戻った将門は、天慶3年(940)正月中旬に、平貞盛と藤原為憲の追討するために、まだ疲れの残る5千の兵を率いて常陸国の北部に向かった。それに対し、この将門(新皇)の軍を那珂郡および久慈郡にいた藤原氏などの役人はあわてて(郡)境まで迎え、「貞盛等の逃亡者はこちらには居りません。また噂では浮雲のように飛び来て飛び去ってしまいましたので行き先もわかりません」という。10日ほど探したが、敵兵の一人も発見できず、仕方がなく将門は自分の館へ戻って行った。

<貞盛の妻への恩情>
 貞盛らは妻子を非難させ、別にどこかに隠れていたらしく、将門の捜索で、平貞盛の妻と源扶(たすく:源護の息子で、最初に将門を襲撃した首謀者の一人)の妻らが将門軍の先陣隊により捕らえられた。この知らせが本陣の将門の本隊に届いて、すぐ「乱暴はするな」と命令を出したが、伝達に時間も掛かり、捕らわれた妻たちはかなりひどい目に合わされたという。
また、将門からは「戦場で放浪している女性は本来の主の許に返すのが古来からのしきたりである。身寄りが無ければ然るべき救いの手を差し伸べるのは帝王としての範とすべきだ。」といって、これらの女性一襲(ひとかかえ)の衣服を与え解放した。 
そして次のような歌を贈った。
  「よそにても風の便りに吾ぞ問ふ
        枝離れたる花の宿りを」
これに対して貞盛の妻、源扶の妻もそれぞれ返歌を返した。
  「よそにいても花の匂いの散りければ
        我が身侘しと思ほ得ぬかな」
  「花散りし我が身もならず吹く風は
        心もあわきものにざりける」
原本はお互いの心が和み将門への憎しみも安らいでいった・・・・などとある。
まあ最初に書いた争いの始まりの女性をめぐる争いとしてこの女性が関係していたという説もあるが、原本には書かれていない。

<秀郷の登場>
 貞盛等を追いかけて常陸国北部までやってきた将門であったが、多くの日を費やして探したが妻子たち家族しかとらえられず虚しく下総へ戻ってきた。多くの兵士も家族の所へ戻るなり将門の周辺には千人にも満たない兵士がいるだけであった。陣内は正月でもあり、のんきな様子であった。そんな様子が隠れていた貞盛の陣営に伝えられた。
将門攻略のチャンスととらえた貞盛は軍勢を集めた。そこに登場するのが、当時下総国の押領使(おうりょうし)を勤めていた藤原秀郷である。押領使は、基本的には国司や郡司の中でも武芸に長けた者が兼任し、その国内の治安の維持にあたっていた。一部では一国に限らず東海道や東山道といった諸国を統括すし、安維持や警備にあたっていた場合もあるようだ。またこの押領使には、土地の豪族を任命することが主流で、軍備力も、自らがその地おいて持つ私的武力が中心であったという。朝廷からの将門討幕命令を受けているので貞盛と秀郷の軍勢は合わせて四千騎余が集まった。その軍勢が将門の本拠地を目指して行動を開始した。この動きは将門陣営にも届き、陣営に残っていた軍勢千騎ほどで迎え撃つために出陣した。時は天慶3年(940)2月1日であった。そして藤原玄茂の部下の中から多治経明、坂上遂高の軍勢が前方に出て偵察すると、多治経明の部下が、敵の大軍、それも四千もいるであろう軍勢を発見した。多治経明も我は「一騎当千の武士」と豪語しており、これは手柄を上げるチャンスとばかり、後ろの本部隊には知らせず秀郷らの軍勢の中に突撃した。しかし思いのほか秀郷軍は強く、これは撃破されてしまい、この敗北は本隊に伝えられた時はすでに遅く、将門軍は兵を引いて、体制を立て直さざるを得なかった。

<川口村の戦い>
 将門軍は兵を引き上げて一旦下がって、川口村(下総国川口村:下妻市と古河市の中間辺り)附近にやってきた。敵軍が後を追ってきたが、将門はここで体制を整えて反撃に出た。戦闘は将門が先頭に立ち雲上で鳴り響く雷のようにすさまじく、最初は将門軍に押されっぱなし出会ったが、貞盛の「敵は賊軍、われらは政府の軍隊である。怯んではならない。」の激に奮起してか西に日が傾いてきた頃次第に貞盛・秀郷軍が挽回してきた。弓矢の数で勝る貞盛軍の放つ多くの矢は効果的で、将門の本拠地の岩井にも近いこの場所の戦は貞盛軍の勝利となり、将門軍は退却せざるを得なかった。

<北山の決戦>
 川口村で勝利した貞盛は近隣から言葉巧みに兵を集めた。集まった兵は今までの倍ほどになった。そして天慶3年2月13日に将門の本拠地へ向かった。
一方将門は、敵も疲れていると見て、敵をひきつける作戦で、手持ちの軍勢で猿島(幸島)の広江(広河の江:湿地帯)に潜伏した。本拠地に将門がいると思って攻め込んできた貞盛たちは、将門がいないために多くの家屋に火をつけ、家財道具などを破壊して回った。住民たちや僧侶たちはそこから逃げるしかなかった。将門には常に8000の兵がいたようだが、多くの兵がそれぞれの故郷に帰ったりしていて、急には集められず、この時、将門軍はわずか400余の兵しかいなかったという。その兵たちを集めて、将門は北山(現在の岩井市北部)に陣を布いた。一方の秀郷・貞盛連合軍は強力な布陣で、まだ将門の援軍が到着する前を狙って攻撃を仕掛けた。

<将門の最後>
 先頭が開始された時は強風が吹いており、将門軍は風上にいて順風を得て、将門軍は優位となった。将門軍の騎馬武者が攻めてくる敵八十余を討ち取ってしまった。これに恐れをなした貞盛たちの兵士が逃げ出し、三百余の兵士しか残っていない状態になった。この時に風向きが変ったのである。今まで将門軍に優位に吹いていた風が反対になったのである。貞盛軍たちもこの風を味方につけ反撃してきた。将門はこの中でも鎧兜に身を固め、軍の先頭に立って風に向かって駿馬に鞭打って戦ったのである。その時、どこからともなく強風に乗って飛んできた鏑矢が将門の右の額に命中した。大将は普通は味方の軍の後ろにひかえているものだが、将門は先頭に立ちその猛威を存分に示していたが、不死身の伝説もあっけなく尽きてしまった。将門の死は天慶3年2月14日のことであった。
将門記での記述は無いが、首は刎ねられ、京の都に送られ、さらし首となり、都の人々はそのあまりの形相に震え上がり、その首が空を飛んで岩井に戻る途中、力尽きて江戸に落ちた(将門の首塚)などという伝承もその後生まれた。

<将門悲傷>
 将門の死により、捕虜となっていた常陸介・藤原維幾と交替使・藤原定遠らは無事に解放され、将門の死の翌日の2月15日に常陸国府まで戻ることができた。中国の古書・左伝には「悪徳を貪り、公権に背くことは、猛威を過信して無謀にも鋭利な刃物を踏む虎のようなものである」と書かれている。平素から学業には重きをおかず、武芸のみに熱中しており、これが原因で親類縁者を敵として戦う事になった。その結果、中国の古書にある黄帝と炎帝の戦いで版泉の地に滅んだ炎帝のように、合戦で敗れて命を失い、さらに謀反人として永く汚名を残す事になってしまった。

<余類伏誅>
 余類伏誅(よるいふくちゅう)とは、将門の関係していた者たちが次々に殺されたということだ。賊首の兄弟及び伴類等を追捕すべきという官符が正月十一日を以て東海道東山道の諸国に下された。これにより平将頼(弟)、藤原玄茂らは相模国に逃れたが、ここで殺害された。また與世王は上総国で、坂上遂高(さかのうえのかつたか)・藤原玄明は共に常陸国で見つかり殺害された。征討軍の先手であった藤原忠舒は下野少掾(しょうじょう)に押領使(おうりょうし:現地の豪族から選ばれた官憲)を任命して、4月8日から謀反人の探索を始めた。これにより各地に潜んでいた将門の親族たちが山伏となり山中に隠れたという。

<論功行賞>
 天慶3年3月9日、中務省からこの軍功に対して、次の論功賞が行われた。
・源経基:正六位上から従五位下に叙された
・藤原秀郷:従四位下に叙された
・平貞盛:正五位に叙された

<乱後の余塵>
 平将門の行動を評すれば、誤った考えから、身分を超える野望を抱き、流れゆく水のように儚い生涯を終えたのであるが、「虎は死んでも皮を残し、人は死後に名を遺す」という諺のように、自分の身は滅びたが、敵の勝った者たちは思いもかけぬ恩賞を得たのであるから真鍮悔いはないであろう。一人の武人が謀反の心を抱いたことで坂東八か国に騒乱が起きたのである。一族の妻子兄弟姉妹らは居場所を失い、身を隠す場所すらなくしてしまった。それまで雲の如く群がっていた平氏やその家族たちも敗戦とともに逃げ散ってしまい、多くの者はまた途中で討たれ閉ったのです。また肉親たちはバラバラになり、別れ別れになってしまいました。大空の雷鳴は百里の遠方まで響き渡るが、将門の悪名はそれをはるかに超える千里の果てまで知れ渡ったのです。

<冥界消息>
 将門の死後、世間では次のようなことが言われた。
「平将門は、前世の因縁で、東海道は下総国豊田郡に住んでいた。殺生に明け暮れ、少しも善根を施すことがなかった。この将門も限りある寿命で遂に滅んでしまった。
また、噂話として、討たれた平将門は、今、仏道に言うところの三界の国、六道の郡、五趣の郷、八難の村に住んでいて、使者に伝言して近況を伝えてきた。それによれば、
「私、平将門は世に在る時一つとして善行を施したことがなかった。その業により、今は悪道(地獄)に堕ちることとなって、この住所に苦しみながら棲んでいる。私を悪人と訴える亡霊が地獄にも1万5千匹も居て毎日、私を苦しめる。現役の時に為した部下の罪もすべて私一人で背負わねばならない。剣の柱に身を置き、鉄柵の中で火に焼かれ、たくさんの毒を食べさせられ、毎日忙しくて苦痛な日々をおくっている。月に1日だけ休日があるが、これは現世に居た時に願掛けした今光明経の功徳である」とのこと。冥界では人間社会の12年が1年に当り、12ヶ月が1ヶ月、30日が1日だという。月に1度の休日は人間社会では1年に1度になる。
最後に将門の霊魂は「生き残った者たちよ。他の為に慈悲を施し、悪行を消す為に善根を積むことを心掛けて欲しい。美味であったも精進を忘れて生きものを殺してはならぬ。たとえ心中に惜しんでも仏僧への施しを忘れてはならぬ・・・」と書かれ、事件直後の「天慶3年6月中に此の文を書いた」とある。
この最後の文はいかにも僧侶の言葉のようで、恐らく作者が近くに住んでいた僧侶だと考えられる根拠になっている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて以上が将門記の概要であるが、皇室を降下した平氏であった将門は、根っからの悪人ではなく、お人よしで、人一倍女にもてて、戦えば負けることを知らないような者であった。それが周りの取り巻きにおだてられ、東国八カ国を手に入れ、新皇王を宣言して、国が2つ(当時まだ東北北部と北海道は大和朝廷の力の及ぶ領地ではなかった)に分けることが出来ると本当に思ったのかもしれない。東国では都の力があまり及ばず、山賊や狼藉を働くものも各地でいたのであろう。一時の夢に終ったが、東国人にとって汗水して得た食料や衣類などを、中央から来た役人どもに搾取されたことも多かったのかもしれない。この将門の事件は短期間で決着がついたが、東国の庶民にとっては拍手喝采の部分もあったのだろう。それが将門の数々の伝説を生み、神田明神をはじめ多くの神社などに祀られ、庶民の心に深く残って行ったものと考える。
 しかし、実際の歴史は、皇室に刃向かって新たな王を樹立するという暴挙に出たとして、大悪人として名前を残す事になったのだ。また、この大悪人をやっつけた藤原秀郷は一躍有名になり、日光山縁起にからめたムカデ退治(俵藤太)の伝説が生まれ、その後の鎮守府将軍に任命され、東国における源・平に匹敵する第3の勢力である藤原秀郷流武士団(小山氏、結城氏、長沼氏、皆川氏、佐野氏、小野寺氏、那須氏、藤姓足利氏、鎌田氏、波多野氏、奥州藤原氏、紀伊佐藤氏など)の発達につながって行った。また平貞盛も、その後に鎮守府将軍となり丹波守や陸奥守を歴任、従四位下に叙さられた。貞盛は源護、平国香と引き継がれてきた常陸大掾職を弟繁盛の子維幹を養子にして任命させ、その子孫が大掾職をほぼ独占で世襲したため、一般には子孫も大掾氏と呼ばれるようになって行った。常陸国南部を中心にこの大掾氏を中心とした平氏一族が戦国時代末期までそれから600年に亘って治める事になったのである。

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/05/28 12:35
コメント

管理者のみに表示