常陸国における源平合戦(7) 常陸大掾氏(多気大掾)

さて、かなり細かくい今まで書いてきているので、わかりにくいかもしれませんね。
しかし、書き始めたのでこのままのスタイルで最後まで進めたいと思います。
さて、今回のテーマは将門の乱の後に、常陸の地(とくに南部)で勢力を持った「平氏」の話です。
一般に常陸大掾(だいじょう)氏と呼ばれる平氏です。
掾(じょう)は国司の位の一つで、すでにこの「常陸国における源平合戦」の(1)に書いています。
守、介の下の位です。また大国には大掾(だいじょう)、少掾(しょうじょう)の2名がおかれました。
常陸国は大国でしたので、大掾・少掾がおりました。
また親王任国でしたので、守は皇室の親王がなる(太守)決まりとなっていましたので、これは形だけのものでした。
また介(常陸介)も現地に来ても数年で交代します。
そのため、現地のトップとして、地方豪族などを統括する役割はこの大掾(だうじょう)が握っていました。
そして、この職をこの常陸に勢力を伸ばした平氏が世襲のようにこの職を守って離さなかったのです。
そのため、その後、姓は平(氏)ですが、大掾氏と呼ばれるのが一般的となってきました。

上の系図に常陸国大掾氏として、現在のつくば市北条の多気(たき、たけ)山に城を築いて、鎌倉幕府の初期まで続いた氏族「多気大掾氏」について説明していきます。
(平)貞盛: 父の平国香は筑波山の北と西側に勢力を持っていた常陸国の大掾職を任されていた(源氏の種族と思われる)源護(みなもとのまもる)の娘を妻に迎え、この大掾の職を国香が継いでいました。
しかし、住んでいた石田(現:筑西市東石田)の館を将門に襲われ、無念の死を遂げます。この悲報を京にいて知った国香の長男の貞盛は、将門追討のため下向するが将門討伐に失敗し、また都に逃げ帰ります。その後坂東の6カ国を手に入れた将門は新皇を自ら宣言し、朝廷に対する反逆者となります。そして将門の追討命令が出されます。都で時をうかがっていた貞盛に、将門軍が多くの勢力を休ませて手薄な時を狙って、大群を率いて将門追討に出ます。
また、これに下野押領使藤原秀郷(ひでさと)が味方したために、将門は400人ほどの兵で、この貞盛・秀郷の連合軍約4000人と合戦となり、将門はついに馬上で矢を受けて倒れたのです。
この将門追討の功績で、(平)貞盛は、従五位上に任じられ常陸に多くの所領を得ることになります。
その後、鎮守府将軍や陸奥守などを歴任し、従四位下に叙せられ「平将軍」と呼ばれるほど出世します。
ただ、貞盛には繁盛(しげもり)という弟がおり、兄の貞盛と共に将門追討軍に参戦したのですが、こちらに対する論功行賞はなかったようです。
これに不満を持ったようですが、この常陸国の大掾職はこの繁盛が継いだようです。住んでいたのは将門追討の時の貞盛側の拠点であった水守(みもり;:現つくば市水守・・・後の小田氏の拠点となった小田城の北西側)であろうと考えられます。
記録として残っているのは繁盛が大般若経600巻を書写して、寛和2年(986年)に比叡山延暦寺へ奉納したことくらいでしょうか。この計画も当初、武蔵国の平忠頼・忠光らの妨害で、成し遂げることが出来ず、争いも起こりますが、これは各国の国衙を経由して奉納するという条件で比叡山への奉納を成し遂げることができたようです。600巻を書き写すのにどれくらいの年月がかかったかはわかりませんが、将門の死後46年後に成し遂げるのですから、この間の多くの時間をこの書き写しに費やしていたように思います。
さて、都で成功した兄の貞盛は実子の他に多くの養子を迎え、各地の役務につかせていたようです。
やはり常陸国の大掾職は貞盛にとっても欲しい職だったのかもしれません。この弟・繁盛の子の「維幹」を自分の養子にします。
維幹(維基)(コレモト):貞盛の弟の繁盛の子であり、貞盛の養子となって常陸大掾職につきます。
それ以来この常陸大掾職がほぼこの一族で世襲されて(実際はかならずしも世襲されず、これが世襲されたとまでは言えないとする考え方もあります)、名前に「幹(もと)」という漢字を入れた平氏がここに始まります。
そのため、国香などから大掾職が始まったというよりは、大掾氏の実質的な祖はこの「平維幹」と言ってもよいと思います。
最初は、筑波郡水守(みもり)(当時の記録には水漏と記載あり)に住み、990年頃に近くの多気(つくば市北条近く)に移ります。
記録としては、「宇治拾遺物語」に、
・維幹が京都に訴訟で上ったとき、高階成順の娘を見初め、妻にして常陸に帰った。
・二女をもうけたが、やがて歳月を経て妻は死んだ。
・その後維幹の妻の妹が夫の常陸介にしたがって常陸にやってきた。
・まもなく任期が終わって都に帰るとき、維幹は二女を遣わして餞別を贈らせた。
・二人の娘はそれぞれ逸物の良馬10疋ずつと、皮子(籠)を負った馬100疋ずつをおくったので、常陸介は維幹の娘たちの富裕におどろいた、
という話が記されています。(石岡市史より)
為幹(タメモト):常陸大掾。
・寛仁4年(1020年)ころ、維幹・為幹父子の勢力は強大で、常陸介を圧倒するほどであった。
・当時、為幹は父と同じく従五位下に叙されており、富力と権力をもって粗暴な振る舞いが多かった。
・寛仁4年7月。紫式部の弟の常陸介藤原惟通(これみち)は常陸国府で死んだ。この時、為幹が惟通の妻子を奪い取り、強姦するという事件がおこった。
・惟通の母が朝廷に訴えたが、為幹は権力に任せて病気を理由に出頭しなかった。
・日々莫大な献物を貴族達に贈っていたことが分かっている。
・結果としては為幹は1年間京都に留められ、1021年に罪を許されている。
繁幹(重幹):上総介。
・源義家(八幡太郎)の弟の新羅三郎義光が常陸介在任中に繁幹(重幹)と婚姻関係を結んでいる。
・嫡男の義業に繁幹(重幹)の子清幹の娘をめとらせ、生まれた昌義が佐竹氏の祖となった。
・1106年(嘉承元)源義国と佐竹氏側で合戦した。
致幹(ムネモト):多気権守。
・東城寺の裏山から発見された経筒には1122年と1124年 平朝臣致幹 銘の経筒が発見されている。
・後三年の役に参加。
・致幹の兄弟は、水戸および結城・真壁方面に進出した。清幹は吉田次郎といい、その3子は吉田太郎盛幹・行方次郎忠幹・鹿島三郎成幹で、それぞれ吉田・行方・鹿島氏の祖となった。
・「奥州後三年記」には、源頼家が安倍貞任を討つために陸奥国に下ったとき、多気権守宗基(致幹)の娘と旅の仮屋で逢い女子を生んだ。その子が美女で清原真衡(さねひら)は、この女を迎えて養子の成衡の妻にしたと記されている。
直幹:常陸大掾。
直幹の四男長幹は真壁に築城して真壁氏となった。
義幹:常陸大掾。
・1193年大掾職の座を狙っていた守護の八田(小田)知家が策謀を巡らし、源頼朝へ曽我兄弟の仇討ち事件の混乱につけ入り、「義幹謀叛の噂あり」と讒言をした。八田知家は藤原北家宇都宮氏の直系で、当時この北条近くの小田に城を構え、小田氏と称されていた。
・義幹は鎌倉に呼び出され、大掾職を解かれ、領地没収となり失脚し、多気氏は滅びた。
・次男茂幹は芹沢氏(新撰組の芹沢鴨はこの一族)となり、常陸国に戻ってきた。

(北条の町に残されている多気太郎:平義幹の墓:五輪塔)

(小田氏は、この写真の北条の町中に残された灌漑用の水路の整備を、鎌倉幕府に謀反の証拠として換言したといわれる)
この鎌倉幕府(頼朝)によって領地没収となった多気氏がその後どうなったかについては以前書いた下記の記事にあります。
手奪橋(5) ⇒ こちら
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