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常陸国における源平合戦(8) 吉田(馬場)大掾氏

源平合戦8

常陸国の源平合戦(8)になります。
前回、常陸国南部に勢力を持った桓武平氏の直系である「多気大掾氏」を紹介しました。
しかし、この大掾(だいじょう)氏が当時どのように呼ばれていたのかは不明で、大掾職(官職)が必ずしも世襲とはなっていなかったとも言われ、正式に大掾氏と呼ぶのにはふさわしくないという話もあります。

ただ、ここからこの常陸国の平氏が始まりますので、ここは多気大掾氏と呼んでおきましょう。

また、奈良朝のはじめから、常陸国の国衙(政務を行う中心)は現在の石岡市にずっとありました。
このため、この多気大掾が大掾職を履行するためには、石岡の政庁に行く必要があります。
しかし、この頃の記録にあまり大掾氏の印が押されておらず、主にこの石岡地方に居を構えていた「税所(さいしょ)氏」の印が押されていたようです。

この常陸国の大掾氏がどの程度政務などを行っていたのかについてもあまり記録がありません。

税所(さいしょ)という名前は、常陸国全般の税をとり纏める役職から、このような名前で呼ばれるようになったもので、元々は百済(くだら)氏と呼ばれていました。大和朝廷が、百済から亡命してきた百済王国の人を常陸国にも何人か送り込んでいますので、そのうちの一人だと思われます。

さて、1193年に鎌倉に呼び出されて、所領を没収され、この多気(北条)の地を追われて、この平氏の流れはいったん途絶えるのですが、鎌倉幕府(よりとも)は、この大掾職とその没収した多気氏の所領を、換言をした小田氏(八田氏)に与えず、当時水戸近郊の吉田郡にいた多気大掾氏の親戚に当る吉田氏に任せる事にしました。
(多気大掾:平繁幹の次男の清幹が、水戸明神のあった現水戸一校野球場付近に館を構えた。この地が吉田神社の一部であったため、この館を吉田館とよび、この一族(平氏)は吉田氏と呼ばれた。但し、正式な氏は平(たいら)である。)

頼朝は平家との戦の前に、常陸太田にいた佐竹氏の勢力を押さえ込んでから、戦いに入っており、まだこの常陸北部に勢力を持っていた佐竹氏を封じ込めるためにも、この水戸での足場を固めておきたかったのかもしれません。

常陸大掾氏関係図2

資幹(助幹)(すけもと) :
1193年八田(小田)氏の讒言で失脚となった多気氏に代わって同族の吉田氏の資幹が源頼朝より大掾職に任ぜられた。
・本拠を水戸明神の馬場に移して水戸城を構築した(築城年ははっきりしていないが建久年間(1190年-1198年)といわれる。また今の城よりは大分小さな城だったと思われる)。
・水戸明神の馬場であったことにより馬場小次郎資幹と称し、これより馬場氏と名乗った。
・1214年鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、府中に居館を構えた。
 どうもこれ以降に国府の政務も行うようになったのかもしれない。
・この時現在の石岡市田島の台地に外城(石岡城ともいわれるが、当時の呼び名ははっきりしない)が築かれたという。

朝幹(あさとも) :
・この朝幹の代に、知家の子で、実質的な初代小田氏の小田知重が大掾職を望み、鎌倉幕府の常陸守護の立場を利用し、鎌倉幕府に働きかけ、大掾職が一時停止となった。
・しかし大掾職はまた馬場氏に戻されたが、鎌倉期以来の常陸守護の系譜を引く小田氏との対立、抗争がその後も続く事になった。

教幹(のりもと) : 

光幹(みつもと) :
 
時幹(ときもと) :
 
盛幹(もりもと):
・1333年鎌倉幕府滅亡し、南北朝時代となり、盛幹は1335年中先代(なかせんだい)の乱では北条時行についたが、その後室町幕府を開く足利尊氏に謝罪のため、多気種幹の遺子竜太を人質として差し出す。

高幹(たかもと):
・時幹の子で盛幹の弟とみられる。
・北条時行側についた高幹は、中先代(なかせんだい)の乱を平定するために東下した足利尊氏の軍と合戦におよんだ。
・この戦いに大敗して北条時行軍は潰滅、鎌倉に入った尊氏に高幹は降伏した。
・その後、尊氏は後醍醐天皇の召還命令を無視して鎌倉に居すわったため、天皇は尊氏謀叛として新田義貞を大将とする討伐軍を発した。ここで楠木正成の弟正家が常陸国瓜連城に入ると、高幹は小田・那珂氏とともにこれに加担した。
・しかし瓜連城は落城し、北朝方の高師冬の軍事拠点となった。この瓜連城落城を契機に南朝方那珂氏は滅亡に瀕し、終始尊氏方として活躍した佐竹氏の常陸北部支配が決定的なものとなった。
・佐竹氏らの武家方に府中を攻められるも、小田治久の助けを得て国府原で佐竹軍と激突、佐竹勢を打ち破った。
・しかし小田氏との永年の確執は変わらず、高幹は1338年に武家方(北朝)に転向し、小田氏・志筑氏を攻めることとなった。
・以後、府中一帯は北朝勢力の一拠点として、内乱期を通じて比較的穏やかな日々が続いた。
・1341年小田城の攻撃に際して、大掾高幹は志筑城攻めを命じられている。
・大掾職を嫡男文幹(詮国)に譲った高幹は、剃髪すると浄永と号して水戸に隠居した。

詮国(あきくに、文幹:ふみもと):
・文幹(ふみもと)は足利将軍義詮に従い功をたて、詮の一字を賜り詮国(あきくに)と改めた。
・正平年中(1346~51)に府中城を築き兵勢を盛んにして争乱に備えた。
・それまでの居城である田島の城も外城(とじょう)として残した。
・北朝方に属した大掾高幹・詮国父子の時代に大掾氏は勢力を拡大し、この大掾氏の存在は、南朝方の小田・白河結城氏らの行動を牽制し、同氏の政治的地位の向上や府中の非戦場化を実現した。
・高幹・詮国・満幹の名は足利将軍からの一字拝領と思われ、足利氏との強固な関係を築いていたことがうかがわれる。

満幹(みつもと):
・1416年に上杉禅秀の乱(室町(足利)幕府に対しておこした反乱)で上杉方につくが、敗れた
・水戸城(馬場城)周辺の所領を没収され、足利幕府は水戸城も含め、大掾氏の水戸の所領は江戸道房に与えられた。
・しかし満幹は水戸城の明け渡しを拒否し、占拠を続けた。
・1426年に府中(石岡)で行われた「青屋祭」を執行するため、一族をあげて府中に赴き、水戸城を離れた。
・これを好機とした江戸通房が大掾氏の居館である水戸館を奪取した。(江戸氏はそれまで仲間のような振る舞いで大掾氏と接していたようだ。留守を江戸氏に任せて出かけたものと思われる。)
・1429年12月に満幹父子は鎌倉に呼び出され、鎌倉公方持氏の命により殺害された。

清幹(きよもと):
・満幹父子が殺され、満幹の弟秀幹のそ孫清幹(満幹の孫との説もある)が大掾氏を継承した。

高幹(たかもと): 法名亀山

常幹(つねもと): 法名涼峯浄清

慶幹(のりもと):
・水戸地方を拠点とした江戸氏は盛んに勢力を南に拡大してきており、これに対して大掾氏は小田・真壁・笠間の諸氏ととも江戸氏と対立した。
・1546年、行方四頭のひとり同族の小高直幹の誘いにのった小田政治が大掾慶幹を攻撃してきたが、慶幹は長者原において小田氏を撃退し、さらに進んで小高城を奪取した。

貞国(さだくに):
・1551年慶幹が没し、子の貞国が大掾氏を継いだ。
・この頃には大掾氏、小田氏、江戸氏の三つ巴の対立が激化し、特に小田氏の勢力が強まった。
・1563年貞国は三村合戦で小田氏治に破れた。
・その後佐竹氏と連携し小田氏攻略に備えたが、大掾氏は小川の園部氏と確執を起こし争った。
・しかし、その園部氏(小川)を江戸氏と佐竹氏が園部氏(小川)を支援したため、小田氏への守りとして築城した三村城も城主の弟常春は小田氏に攻められ1573年に落城し、25歳の短い運命を閉じた。
・一方、小田氏も佐竹方に攻められ1574年に土浦城が陥落した。
・この時、大掾氏は東に園部、北に江戸・佐竹、南に小田に囲まれてしまった。
・1577年に貞国は戦死した。

清幹(浄幹)(きよもと):
・貞国の死後5歳の清幹が家督を継いだ。
・後北条氏の勢力が北関東にも及んでくると、大掾清幹は上杉謙信と結び、佐竹氏らと協力して反北条活動をとる。
・しかし、その間も江戸重通は大掾氏を攻め続け、当初中立の立場をとっていた佐竹氏も江戸重通に協力する。
・清幹は府中城の詰め城を殆ど落とされ、大掾氏惣領家の滅亡は時間の問題となった。
 これに対抗するため清幹は後北条氏と結んだと思われる。
・天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原の役が発生する。
・清幹をはじめとする大掾氏一族は後北条氏側に立ち、参陣をしなかった。
・結果、常陸は参陣をした佐竹義重に与えられた。
・佐竹義重は水戸城を攻めて江戸重通を追い出し、その勢いで府中城も攻め立てた。
・激戦の末、府中城は落城し、大掾清幹は自害した。
 この時清幹は18歳であった。 これにより大掾本宗家は滅亡した。

次いで翌年2月、佐竹義重は三十三館主と呼ばれた鹿島・行方郡の大掾氏枝族を太田城に招き皆殺しにしたと伝えられている。ただ三十三館という数は、常陸国の水戸より南に勢力を誇っていた平氏一族の総称で、正確な館の数ではない。
また鹿島、行方郡に軍を進め、大掾氏一族の殆どは滅亡した。(別途記載)

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(府中城跡に残された土塁)

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(外城跡:掛札神社)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/07 16:29
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