FC2ブログ

常陸国における源平合戦(9) 河内源氏と常陸源氏

源平合戦(9)

常陸国における源平合戦の9回目です。
前回と前々回は平氏として常陸国南部に進出した桓武平氏の直系とされる「大掾(だいじょう)氏」とよばれる氏族を鎌倉時代初めまでの多気大掾氏とその後戦国時代末期までの吉田大掾氏について書いて来ました。

では源氏は?

常陸国の源氏といえば、戦国時代を制し、常陸国を統一した佐竹氏がいます。

常陸国は、ここまで書いてきたようにまず桓武平氏が地元豪族などと手を結すび、常陸国南部を中心に領地を拡大させました。
その後に、河内源氏が入り込むのですが、そのきっかけは奥州の蝦夷征伐として知られる「前九年の役」「後三年の役」における源氏の活躍です。

この成果が東国武士団にも大きな影響を及ぼしたと思われます。
後三年の役では八幡太郎義家に味方した東国の武士がかなりいたのでしょう。
ただ、歴史は勝者により作られるという話しもあり、鎌倉幕府が成立したことで、実際の史実以上に誇張され、美化された話とおもわれる伝説やたくさん作られ、残されていったように思われます。

最近になってわかってきた史実を基に、これらの美化された話なども検証しながらこの常陸国の源氏の流れに関係する事項を見ていきましょう。

常陸と河内源氏関係図2

上の関係図は現在のWikipediaなどに記載された内容を図式化したものです。

まず、河内源氏は前に書きましたが、2代目源頼義(よりよし)がかなりの強者で、桓武平氏国香流の都で活躍していた平直方の娘と結婚し、(八幡太郎)義家、(賀茂次郎)義綱、(新羅三郎)義光という3人の息子たちが生まれます。
そして、3人は都でそれぞれに出世もしていきます。

1) 頼義は1051年に50歳目前で陸奥守に任じられ、その武勇を見込まれて奥州の安部氏の平定を任せるために鎮守府将軍にも任じられ、常陸国経由で奥州に出かけることになります。(前九年の役)
奥州へのルートははっきりしませんが、頼義はつくば市北条の多気氏(大掾氏)の娘と一夜を共にし、女の子(後に美人と評判となった)が生まれています。また、石岡市三村近郊の村で宿営した時にちょうど正月で小さな村の人から大変ご馳走してもらい、後にこのことに感謝して「黄金のはたし」が贈られ、この地の名前が「正月平」となったと伝わっています。
また、陸奥守として着任した先は仙台の多賀城です。
このため、この時のルートは古東海道で、常陸国国府(石岡)を経由し、水戸の郊外台渡里経由で郡山から古東山道に出たものと推察します。

2) 前九年の役には、長男義家、次男義綱も参戦しており、最後には清原氏の軍勢1万人ほども援助を受け、12年もかかった戦争に勝利しました。都に凱旋したのちに、頼義は正四位下伊予守に、嫡男・義家は従五位下出羽守に、次男・義綱は右衛門尉に任じられた。これで、長男、次男は出世の道に進みますが、三男義光は出世から遅れることになります。

3) 頼義は伊予守の任期を終えて1065年に出家し、1075年に没しています。

4) 八幡太郎義家は、1063年に従五位下出羽守に、1070年に下野守などに叙任されており、1083年に陸奥守になると、前九年の役で勢力を持った奥州の清原氏の内紛に介入し、後三年の役が始まります。
しかし、この戦いは朝廷の命令によるものではなく、私戦とみなされており、朝廷からの援軍がなく、義家は苦しい立場になります。賀茂二郎義綱は官職を無視するわけにもいかず、援護には出ません。そこで登場するのが新羅三郎義光です。
官職では上の兄たちに後れを取った義光ですが、朝廷に兄の援護に出かけることを願い出ます。しかしこれは認められず、1087年義光は官職を辞して兄(義家)の救援に出かけました。年齢も40代前半です。

5) 義光の救援も得て、後三年の役に勝利した義家ですが、この戦いが私戦であったとして、褒賞は無く、陸奥守も解任されてしまいます。
戦いに参戦した新羅三郎義光は刑部丞に任ぜられ、常陸介となり常陸国にやってくることになります。
都では、戦いに参戦しなかった賀茂二郎義綱が出世し、義家、義綱の2人の中は悪くなっていきます。

6) 1091年には河内国の領地をめぐって義家と義綱が兵を構える事件も発生しています。
1093年に義綱は陸奥守となり、翌年には従四位上で義家と並び、1095年には美濃守となり、兄より格上となりました。
河内源氏の棟梁である義家としては恐らくこれは面白くなかったことだろうと思われます。2人の兄弟の争いが後の義綱滅亡のきっかけとなっていくようです。

7) 河内源氏の棟梁である義家は武勇の誉れは高くあったのですが、跡目を継ぐ予定だった嫡男(二男?)義親(よしちか)が対馬守に任じられたとき九州で略奪を働き(1101年)帰還命令が出ますが、義親はこれに従わず官吏を殺害したため、隠岐国へ配流となりますが、これにも従わず出雲国へ渡って再び官吏を殺したため、平正盛の追討を受けて誅殺されてしまいます。

8) 河内源氏の跡目をこのような形で、失うこととなり、義家は次期棟梁を三男義忠(よしただ)とし、その後嫡男の遺児(四男)為義に任すことも考えていたようです。義家は1106年に亡くなり、河内源氏の棟梁は三男の義忠となりました。

9) そして、1109年に事件は起きます。この河内源氏の跡目を継いだ源義忠が何者かに襲撃を受けて殺されてしまったのです。
そして、襲った刀が賀茂二郎義綱の三男・義明のものであったため、その犯人として(賀茂二郎)義綱とその三男・義明に疑いが向けられました。疑われたことに憤慨した義綱たちは山に籠って抵抗し、義綱の6人の息子たちは全員抗議の為自害して果てたのです。また息子たちを失った義綱も佐渡に流され、1132年佐渡で自害し、この義綱の家系は途絶えてしまいました。

10) しかし、この源義忠暗殺事件には黒幕がおり、それが新羅三郎義光であったといわれています。
義光は、後三年の役のあと、常陸介となり、常陸国にやって来ます。そして、多気大掾氏(桓武平氏)から分かれて、水戸南部の吉田に居を構えていた平清幹(きよもと)=吉田氏 の娘を嫡男・源義業(よしひら)の妻に迎え勢力を拡大します。

11) 義業とこの平清幹の娘との間にできた子供が、佐竹氏と甲斐武田氏になっていきます。(次回)
この河内源氏棟梁の義忠暗殺事件首謀者は源氏棟梁の跡目を狙っていたこの(新羅三郎)義光が仕組んだことだといわれています。
実行犯は妻の兄(または弟)である「鹿島三郎こと平成幹(たいらのなりもと)」で、義光にそそのかされて、源義忠の郎党になり、こっそりと賀茂二郎義綱の息子の源義明の刀を使って、義忠を背後から切りつけたのです。義忠も即死ではなく2日後に亡くなりました。

12) この義忠襲撃事件で平成幹も負傷し、義光は自分の弟(正妻ではない子)で僧侶になっていた快誉がいる園城寺に身を隠し、養生するように書状を持たせ寺に向かわせました。しかし、その書状には成幹を殺すように指示されており、成幹は快誉によって口封じのために生き埋めにされて殺害されたといいます。そして義光は兄の賀茂二郎親子に罪をなすりつけ、さっさと常陸国に帰ってしまいました。
(一部不明なところもまだありますが、現在の解釈ではこの義光が黒幕とされています)

13) 義光は豪族吉田氏(平氏)の所有していた常陸国那賀郡武田郷に住し、ここを次男「義清」に譲り、義清は武田冠者と呼ばれました。1127年に義光は亡くなりましたが、父(義頼)時代から甲斐介なども歴任し、甲斐国に義光の所領もあったようです。

14) 義光の死後、1130年に(武田冠者)義清の嫡男である清光が隣りの吉田郷の平盛幹(吉田氏嫡男)と境界をめぐって争いが有り、1130年に義清と嫡男清光親子は常陸国を追われて甲斐国北巨摩郡武田郷(現在の山梨県韮崎市/甲斐市)へ配流されました。この後、甲斐国に土着して甲斐武田氏が起こります。(資料により少しずれがあるが、義光が何処で亡くなったのかはっきりしない。甲斐国の方に義光から武田氏に伝わったとする日の丸の旗や楯なし鎧などの品が残されており、甲斐に行っていたのかもしれない。)
新羅三郎義光の墓は元服した新羅明神にちなみ滋賀県大津市に残されています。

さて、以下にいくつかの伝承話しなどを載せておきます。

(1) 甲斐武田家伝来の家宝 楯無しと日の丸御旗  ⇒ 記事

(2) 新羅三郎の伝来の笛にまつわるお話 ⇒ 記事

(3) かすみがうら市子安神社・・・源頼義父子征奥軍が、三村正月平(現石岡市三村)に宿営、たまたま正月七日の大祭礼に際会。あまりの賑やかさに里人に尋ねたところ、当神社の由来を聞き、感銘した父子は早速流れに架橋し(子安橋)神主に依頼し、朝敵降伏、国家安泰の祈祷をさせた。また、康平6年征奥の退任を終え、凱旋の折、当社に奉賽。社殿修営、祭祀料の寄進をしたと伝えられている。

(4) かすみがうら市胎安神社・・・1054(天喜2)年には、鎭守府将軍陸奥守源頼義、義家(八幡太郎)父子が奥州征討の時に隣村の詩下雫村(下志筑)に在陣中に胎安神社の霊験著しいことを聞き、都にある内室の安産祈願をし、嫡男を無事出産したため、康平6年(1064年)に大任遂行の帰路報賽し、嫡男の誕生日である9月9日を祭日と定め、源氏の紋章である「笹竜胆」(ささりんどう)の使用を許されたと伝えられている。

(5) 正月平・・・石岡の三村地区の上の高台に「正月平」という土地があり、ここに伝わる話です。
源義家親子が前九年の役で、奥州に向かう途中でこの地で正月を迎えました。数軒しかなかったこの地の住民は総出で、乏しい貯えの中から赤飯を炊いて正月のおもてなしをしたのです。そして源義家(八幡太郎)と父の頼義は、それに大いに感激し、「休馬美落集」という巻物の中で、義家は村人に対し心より感謝の気持ちを表しているのです。そして源義家親子は、この地に「黄金のはたし」を残したといわれています。この黄金のはたしは江戸時代まで地元(正月平)にあったが、歩崎観音に奉納され、これも33年に1度しか見ることができなくなったのです。歩崎観音には戦時中ころまで、竜女が安産の願掛けをして無事に生まれたことから黄金で出来た機織機が残されていました。現在は東京などへの展示で持ち出して戦争などで行方不明となりました。

(6) 八幡太郎と長者
 蝦夷征伐(後三年の役)にやってきた八幡太郎義家の活躍した話は各地に伝説となってつたわっています。石岡付近でも、鞍掛けの松といわれた松があった話し、かすみがうら市では四万騎が集まって訓練した野原「四万騎ヶ原」があり、石岡や小美玉市では「五万堀」とか六万の兵が食事をしたという「生板池」「六万」などという地名も残されています。
水戸付近まで行くと軍勢は十万騎に増えていたとも伝わっています。
しかしこれらはほとんどが源氏の時代になり創作されたものも多いようです。

さて、そんな中で逆に八幡太郎をあまりよく思わなかった人々もいたようです。
その中の話を少し紹介します。

 (6-1) 一盛(守)長者(水戸)
昔、台渡里の長者山(現在の水戸市渡里町)に、一盛(一守)長者という豪族が住んでおりました。

八幡太郎の通称で知られる源義家が、後3年の役(1083~1087年)の時、十万余の大軍を率いて奥州に向かう途中に、その長者屋敷に立ち寄りました。
長者は、そんな大軍群ですからとても無理だと思えたのですが、義家を大切に向かえ、すぐさま山の様な御馳走と酒を用意して手厚くもてなしたのです。それも酒宴は三日三晩も続いたのです。
そして、義家が奥州を平定して、帰りに、再び一盛長者の屋敷に立ち寄りました。
すると前にも増して豪華なもてなしを受けたのです。
義家は次第に、喜ぶどころかあまりの豪勢振りに恐ろしくなってきました。
『この様な恐ろしい程の大金持ちをこのままにしておいては後々災いの元となる。
謀反などを起こされたら大変だ。今のうちに滅ぼしてしまおう。』
と考え、長者の屋敷に火を放ち、一族を全滅させてしまったのです。
この時、長者は秘密の抜け穴に逃れ、身を潜めておりましたが、抜け穴も義家の家来に見つかり、長者は出口まで追い詰められてしまいました。
出口のすぐ下は那珂川です。もう逃れられないとさとった長者は、家宝にしていた黄金の鶏を抱いたまま川に身を投げてしまったということです。

伝説の一盛長者の屋敷(後の時代には長者山城)跡は現在も確認できます。幾重にも重なる郭と堀。北西を田野川、北東を那珂川。城として好条件でした。

 (6-2) 唐ヶ崎長者(行方)
これは行方市の西蓮寺に伝わる話です。
昔、神様のお告げで酒となる湧水を売った親孝行息子がおりました。その後に鹿島へ向かう大道沿いに唐木造り白檀の門構え,三百間四方を土手で回すほどの長者となり、唐ヶ崎長者と呼ばれておりました。
しかし、長者夫婦には病弱な一人娘がおりました。このため、長者夫婦は西蓮寺薬師如来に祈願して、その功徳によってこの娘は無事に成長しました。
数十年過ぎて、この娘も老婆になっておりましたが、そこにちょうど源義家の軍勢が奥州征伐の途中に立ち寄りました。
義家たちは長者に食事を用意してくれぬかとお願いしましたが、長者は、お武家様に食べされるようなごちそうはございませんと一度断ったのです。しかし、それでもよいから何か用意してほしいと懇願され、長者が用意した料理がとても豪勢で、これは大変な長者だ、後々生かしておけば大変な災いになるに違いないと、義家はこの長者一族を皆殺しにしてしまったのです。
しかし、この老婆だけは生き残り、一族の冥福を祈って供養し、念仏三昧の余生を送りました。今でも九月の西蓮寺の常行三昧会には西蓮寺婆さんとして、その徳を称えているといいます。
この伝承は長者没落譚ですが、結論としては西蓮寺への信仰を進める伝承に落ち着いています。
薬師如来の加護によって成長した娘は源義家の虐殺にも生き延び、死ぬまで念仏三昧だったと言います。「西蓮寺婆さん」自身が念仏三昧の生涯を送り、かつ信仰対象にもなっているわけで、理想的な信者の手本として伝承されてきた存在でしょう。
現在、寺に祀られているこのおばあさんの像は、「おびんずるおばあさん」としてなでられたりさすられたりしています。

これらの伝承は長者没落の話ですが、どこかその没落の原因が英雄により意図的に没落させられたというようにすり替えられていったのかもしれません。

 (6-3) 勝倉長者伝説(ひたちなか市)
 勝倉大平長者が谷津というところに、大変裕福な長者が住んでいた。
ある日、八幡太郎こと源義家が、奥州征伐へ向かう途中にこの長者の屋敷に立ち寄り昼飯を乞うた。
長者は快く引き受け、即座に300人分を用意した。
しかし義家は何を思ったか、長者をこのまま生かしておいては後々に災いになる、と思った。
義家は奥州から帰る途中。世話になった長者の屋敷を一夜のうちにすべてを焼き払い滅ぼしました。

 (6-4) 大里長者伝説(常陸太田市)
 常陸太田市の大里というところに、大変豊かな長者がいた。

ある日、八幡太郎こと源義家が、奥州征伐へ向かう途中にこの長者の屋敷に立ち寄り宿泊しました。
長者のあまりの富豪ぶりを目の当たりにした義家は、長者をこのまま生かしておいては後々に災いになると思い、急に長者を襲い滅ぼしてしまいました。

 (6-5) あずま長者(持丸長者)(岩間町安居(あご))
源氏の大将八幡太郎義家が、五万の大軍 を率いて奥州の蝦夷を征伐して都へ帰る途中、上安居のあずま長者屋敷 へ立寄りました。
長者は、 「はい、このたびは、蝦夷征伐おめでとうございます。さぞお疲れでございましょう。どうぞ、ごゆっくりお休みください。」と言って、一行をもてなす支度に大騒ぎとなりました。
長者は、もてなしに御無礼があってはならないと、細心の注意を払い、ありったけのご馳走を作り、珍しい品々を集めて酒、肴を振舞ったので義家も驚くほどの豪華なお膳が並びました。
義家一行は、ごちそうに機嫌よくしておりました、出発まぎわになって、雨が降り出してなかなか止みそうもありませんでした。すると、長者は、すぐに五万人分の雨具を用意して差し出しました。義家は、その場は礼をいって出立しましたがこのような豪族をこのままにしておいたらやがて災いを起こすかも知れない。今のうちに滅ぼしておいた方がよかろう。」と五万人窪から急きょ引き返して、長者の家に火を放ちました。
豪勢を誇っていた長者屋敷は、穀倉と共に跡形もなく焼け落ちて、一族も皆滅んでしまいました。

さて、どうでしょうたくさんの伝承も何処までが史実かについてはまったくわかりません。
実際に八幡太郎義家の所業も強力にまかせ、無謀な振る舞いも多かったようです。
どのように考えるかは、一つ一つ丁寧に史実を積み重ねて検証してみなければなりません。
しかし、これらの民間伝承には当時の人々の思いなども重なっている部分もあり、単なる作り話といってよいとは思われません。
ここに載せたのは一つの参考に見てください。







常陸国における源平合戦 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2021/06/15 10:07
コメント
No title
驚きです。この長者と義家が出てくるお話、福島県郡山市と那須烏山でも見ました。実際にあった話ならそこらじゅうで後顧の憂いをなくすために暴れまくったのですかね、道中の人々には災難でしたね。
コメントありがとうございます。
これはお話ですからどこまでが事実かはわからにですよね。
鎌倉時代になり美化した話が各地にできましたが、この逆の話が各地にあるのは不思議ですね。
かなり乱暴だったという話しもあるので、強いのと紙一重なのでしょうか。
蝦夷(東北)征伐などと言ってももうこの頃は大和民族と変わらないでしょうから・・・・
でも江戸後期頃まで奥州は野蛮人で教養がないなどと思われていた話(実際は違ったようです)もありますね。

管理者のみに表示