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常陸国における源平合戦(10) 佐竹氏(源氏)平安~鎌倉時代

源平合戦(10)


常陸国における源平合戦の10回目です。

今回は新羅三郎義光が常陸国にやって来て、桓武平氏がこの地の豪族となって南部を中心に勢力を拡大していた中で、水戸近郊に進出していた平氏一族の吉田氏(平氏)の娘を息子(義業)の嫁にして、血縁関係を深め、ここからこの佐竹氏が興ります。

では今回は、戦国時代に常陸国を制したこの佐竹氏の動向を見ていきましょう。

常陸佐竹氏関係図1

さて、上の図が、常陸国の佐竹氏の系図(平安~鎌倉時代)となります。
この後戦国時代末までは次回取り上げます。

つい最近まで最初の頃がよくわからなかったのですが、少しずつ判明してきているようです。

新羅三郎・源義光(よしみつ)(1045~1127)

1) 新羅三郎義光は兄・義家が奥州清原氏との戦闘(後三年の役)に苦戦しているのを聞き、兄を救援するために都での自らの官職を捨てて40歳を過ぎていましたが、1087年に後三年の役に参加し、その年末近くで戦いに勝利します。
都に戻った兄義家は、この戦いが私戦であったとして、褒賞も得られず、その戦いの間に朝廷に納める税も滞納していたとして追徴を受けます。しかし、戦いに参加した東国の武士団への褒賞もあり、これを自らの私財をもって行ったともいわれています。
これにより八幡太郎義家の評判は東国では大変高まり、源氏との信頼関係も築かれました。後の鎌倉幕府建立に役立ったものと思われます。義家がこれらを整理し、次の官職につけたのは1098年に白河法皇により許されるまで10年続きました。

2) 次兄は義綱ですが、朝廷からの信任も厚く出世も早かったようです。義綱は前九年の役には参加していますが、後三年の役は朝廷の命令がなく、これには参加せず出世街道を進みます。ただ四つ木の問題があり、義光の嫡男である義業(よしなり)は、この次兄の義綱の養子となったようです。

3) 三郎義光は後三年の役後に現在の法務省・裁判所のような刑部(ぎょうぶ)省の丞(じょう)に任じられたようですが、この時期もはっきりしません。その後常陸介になり現地(常陸国)にやってきますが、この正確な年代もわかっていません。
常陸介といえば、更級日記に父親の菅原孝標(すがわらのたかすえ)が常陸介となって赴任していた話が書かれていますが、この任期は 1032年から1036年ですから、任期は一般に4年程度だったものと思われます。
常陸介以外にも甲斐介などの歴任しているようですが、この任期もよくわかりません。ただ甲斐国は義光の父の頼義も歴任しており、甲斐国には領土も所有していたようです。

4) 常陸介として常陸国にやってきた義光の記録としては、1106年に源義家の四男で上野(こうずけ)国の領地を相続していた源義国(よしくに) が常陸国に勢力拡大を図り、兵を進行させる事件が起きます。
これに対抗したのが多気氏の平繁(重)幹(しげもと)( 大掾?)と源義光およびその息子の義業(よしなり)です。
この戦闘は多気氏、義光軍の勝利となり、常陸国への進出に失敗した源義国は上野国、下野国などの地域に領地を拡大していきました。そして、その後の足利氏や新田氏の祖となりました。
しかし、この戦闘は朝廷の命令には従わない戦闘でしたので、朝廷からは各国の国司に義光などを追討する命令も出されたようです。したがって、この時点でもし義光が常陸介となっていた場合は、ここでは切られているはずですので、 ~1107?頃までではないかと推察します。また1107年ころに藤原実宗(さねむね)が常陸介となっています。

5) 八幡太郎義家の死後、河内源氏の棟梁を継いだ義忠(三男)が1109年に暗殺されてしまいます。首謀者の汚名をこうむった義綱一家は子供たちは次々と自害して果て、義綱も佐渡に流され、その後1132年に追討を受けて自害して果ててしまい、家は断絶してしまいました。真の首謀者はこの新羅三郎・義光で、実行犯は義光の息子の義成の妻の兄弟である鹿島五郎・成幹といわれています。
この後、義光や息子の義業は常陸国へ本格的に住むようになったものと思われます。
嫡男は養子に出していましたので、義光の後を継ぐものとして、義光は三男・義清と常陸国那珂郡武田郷(現:勝田近く)に住しました。そのため、義清は武田冠者と呼ばれるようになります。その後、常陸国の東南部から鹿島神宮にかけての地の所領争いや、妻の兄の吉田氏との領地争いなどで敗れ、この地で1127年に没します。息子の義清(武田冠者)は常陸国を追われ、甲斐国へ移り住み、甲斐の武田氏となります。戦国時代には武田信玄が出ています。

源義業(よしなり)(1067~1133) 

 義光の長男の義業(よしなり)は、嗣子のいなかった義綱の養子に入り、常陸平氏の一族で馬場城主吉田清幹の娘を妻とした。1106年の源義国(よしくに)が常陸国に勢力拡大を図り、この地で戦争になると、多気氏の平繁(重)幹(しげもと)( 大掾?)と父・源義光とともにこの戦に参加し、勝利を収め、常陸国の地への義国の進出を阻みます。
しかしながら、河内においては義綱の失脚(1109年)により、妻の実家(馬場・吉田氏)を頼って常陸に住みつくことになります。
その後、父義光とともに常陸国の北部に地盤を固めていきます。
実質的に常陸太田に地盤を固めることが出来たのは息子の昌義の代になってからです。

初代 佐竹昌義(まさよし)(生年不詳~1147?)

 昌義は最初の妻を在京平氏の平快幹の娘を迎え、その間に5男子を設けました。また、奥州藤原氏の清衡の娘を後妻にもらっています。これにより、昌義は吉田・藤原両家の力を背景に勢力を拡大していきました。
1133年に現在の常陸太田市天神林にあった馬坂城を藤原秀郷流の天神林正恒から奪い馬坂城の城主となります。
その後、昌義は久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に住みつき、佐竹氏と称するようになった。

この佐竹という名前については次のような逸話があります。
「馬坂城の近くの観音寺(現:佐竹寺)で昌義は、1140年に武運長久を祈願しました。このとき、境内に長さ二十尋(約36m)もある竹の木に、節が1つしかないものを見つけました。「これは出世する前兆だ」と喜び、姓を「佐竹」に改めたという」

昌義は後妻として藤原清衡の娘を娶った事で奥州藤原氏の勢力を味方につけ、常陸国北部の奥七郡支配を行っていきます。しかし昌義の生存年がわかっていませんので、詳しくは不明な点がおおいようです。

2代 佐竹隆義(たかよし)(1118~1183)

藤原秀郷の流れをくみ、代々常陸国守護代を務めていた有力者だった小野崎通長を服属させ小野崎氏の居城だった太田城に入り常陸国奥七郡支配を確立しなした。

1) 常陸太田の現在大田小学校のある所に、藤原秀郷藤原秀郷の流れをくみ、代々常陸国守護代を務めていた有力者だった藤原通延が築城したとされる常陸太田城がありました。佐竹隆義は常陸北部の統一を図るために周りの豪族たちを味方にしていきます。
そして、この太田城の城主・藤原通盛を従属させ、藤原通盛を小野台地に移らせ小野崎氏と名乗らせました。
この太田城に佐竹隆義は住むこととなり、ここが佐竹氏の中心の城となりました。
太田城に佐竹氏が入城の日、城の上空を鶴が舞いながら飛んだので別名「舞鶴城」と名づけたとも伝えられています。
そしてその後常陸奥7郡を領し、勢力を広げました。都では1167年以降、清盛を中心とする平家が政権を握ります。
佐竹隆義も1160年の平治の乱以後、平氏に従っており、常陸介などの要職についていました。

2) 源頼朝が伊豆で挙兵して、敗れて、千葉の房総に逃れますが、頼朝はこの地の有力者たちの援助を受けて、治承4年(1180年)10月、富士川の戦いに勝利しました。そして、そのまま都の平家を追討しようとしますが、これに上総広常、千葉常胤、三浦義澄らが異議を唱えます。 前の敵を追う前に、まず後ろの憂いを除いておくべきだとして、常陸国北部に勢力を張ってきたこの佐竹氏排除を主張します。そして、この意見を取り入れた頼朝はまず常陸国府(石岡)に向かいます。
10月27日、頼朝は軍勢を引き連れ佐竹氏のいる常陸に向かって出発し、11月4日に頼朝は常陸国府に入ります。そこで軍議が開かれ、上総広常が、縁者である佐竹家の嫡男・佐竹義政と弟(三男)秀義へ使いをだし、国府に来ている頼朝に忠誠の挨拶に来るように連絡します。当時城主の隆義は源氏の一族ではありますが、都を支配していた清盛一派の平家に寄り添っておりました。常陸国のほうは、太田城を兄弟2人が守っていました。この誘いに弟は行くのに反対しますが、兄の義政は縁者でもある上総広常の誘いでもあり、先ずは一度あっても良いかと国府にむかったのです。
国府(石岡)の北側の園部川に架かる大矢橋で、隆義一行を上総広常がむかえにでて、橋の両側に話をします。大した大きな川でもなく、橋の両側から声もすぐに届く距離です。そして広常と隆義が1対1で橋の半ばで話し合うこととし、両者は馬に乗って橋の半ばで落ち合います。そして合うと同時に広常は隆義を一刀のもとに切り殺してしまいました。
これで動揺した佐竹隆義の一行は頼朝方に寝返ったり逃亡する者がおり、大慌てでした。一方弟の佐竹秀義は、太田城を棄てて北部の山城である金砂城に立て籠もりました。
その後、頼朝軍はこの金砂城へ総攻撃が仕掛けられましたが、金砂城は山城で難攻不落の城郭でありすぐに落とすことが出来ません。
そこで、頼朝は秀義の叔父の佐竹義季を味方につけ、この義季に金砂城を攻撃させました。この城のつくりに詳しい義季によりついに城は陥落し、佐竹秀義はさらに北部の花園城へと逃亡したのです。
その後、領地であった太田城などは放棄し、金砂城、花園城、武生城などの要害堅固な山城に立て籠もりを続け、氏族の存続を図ることが出来ました。京都を目指す頼朝には時間も無く、それ以上佐竹氏と争う時間はなかったのでしょう。結局は、秀義の家臣である岩瀬与一太郎の懇願によってそれ以上の追討は回避され、佐竹氏は滅亡を免れたのです。
しかし佐竹氏の所領は没収され、八田氏に与えられました。隆義は1183年に66歳で死去し、長男は大矢橋で殺され、次男の義清は正妻の子ではないため、三男の秀義が後を継いだのです。

<大矢橋事件>
治承4年(1180)11月4日、源頼朝は佐竹氏追討のため常陸国府に到着した。佐竹氏は太田(現常陸太田市)を本拠に奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していた。佐竹秀義は頼朝の帰順勧告に従わず、金砂山城(現金砂郷村)にたてこもった。秀義の兄義政は縁筋にあたる上総介広常の勧めで帰順し、頼朝との会見のため国府(現石岡)に向かったが、園部川にかかる大矢橋で謀殺された。大矢橋の西に義政の首塚、行里川に胴塚と伝えられるものが残っている。
この首塚は残されているが、近くの大矢橋は隣に広いバイパス道路が出来て今は昔の面影はない。またすぐ近くに常磐高速のスマートインターが出来、茨城空港とのアクセス道路も完成したためにかなり様変わりしている。また胴塚については、土地の開発で姿を消してしまった。
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(大矢橋に残る佐竹義政の首塚、右手奥に古い橋が残っていたが、現在はこれは取り外され、写真左側にアタラシイバイパス道路ができている)

3代 佐竹秀義(ひでよし)(1151~1226)

 源平合戦で源氏が勝利すると、頼朝が奥州藤原氏に逃げ込んだ弟の源義経を攻めた。
佐竹氏は1189年の奥州合戦においては頼朝から罪を許されて家臣として頼朝軍に加わりました。
この時に佐竹軍が無地の白旗(源氏の旗)を持参し、佐竹氏の旗が無いことを知り、扇に丸を描いて渡し、旗にこの扇を付けるよう命じたといわれ、これが佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」となったと伝わっています。
この戦いで武功をあげ、その後、鎌倉御家人の一人に列せられました。

4代 佐竹義重(よししげ)(1186~1252)

 父や弟とともに承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)の後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権(北条義時)に対して討伐の兵を挙げて敗れた承久の乱(じょうきゅうのらん)で活躍しており、鎌倉幕府に忠実な鎌倉御家人としての佐竹氏の地位の保全に務めています。
また、次男の義直(義尚)は額田氏、三男の義澄は真崎氏、四男の義高(義隆)は岡田氏、六男の義綱は岡部氏となり、常陸での南北朝時代等で佐竹氏の躍進の基礎を築いています。

5代 佐竹長義(ながよし)(1207~1272)

 忠実な鎌倉武士として活躍しています。小田氏(八田氏)に替わって常陸守護となっていた宍戸家周の娘を妻とし鎌倉武士として活躍します。
記録としては、祖父佐竹秀義の妻で、祖母にあたる陽雲寺殿の冥福を祈るために陽雲寺を建立し、また1269年には荒廃していた観音堂を再興し、佐竹寺(妙福山明王院佐竹寺)と名称を改めています。

6代 佐竹義胤(よしたね)(1227~1278)

 鎌倉武士であり、讃岐守・常陸介などを歴任しています。
次男(?)の三郎義継は地元の豪族である岩崎氏の女を妻として、陸奥国岩城郡小川郷(現在のいわき市)に住みつき、常陸国北部からその勢力範囲を広げています。

7代 佐竹行義(いくよし)(1263~ 1305)

鎌倉武士として活躍し、讃岐守・常陸介などを歴任しています。
常陸国北部に領地を拡大しています。

(注:二男義綱は1317年に長倉城(那珂川大橋の少し上流側の山城、対岸に御前山がある)を築城し、長倉氏と称した。後に1408年には佐竹宗家の跡目を巡り、長倉義景は長倉城に籠ったが、足利持氏の派遣した大軍に囲まれ開城した。また1595年には長倉義興のとき柿岡城(現石岡市)へ転封となり、長倉氏はこの地を去った。また、御前山や桂村などに多くの氏族が広がっている。)

8代 佐竹貞義(さだよし)(1287~1352)

 1331年(鎌倉時代末期)に鎌倉時代創設以来八田氏、小田氏一族(宍戸氏など)にほぼ独占されてきていた常陸国守護職に補任された。足利尊氏の鎌倉幕府の討幕運動が始まると、最初は幕府軍についていたが、途中で討幕軍に寝返った。
その後、足利軍として武功を上げ、その功績により常陸守護を認められ、その後常陸守護職は佐竹氏の世襲となった。

ここまで、源義光から鎌倉時代までの佐竹氏の足取りを見てきましたが、大きな流れとしては

(1)佐竹氏は源氏と平氏の両方と血縁関係にあり、また奥州藤原氏などとも血縁関係を築いて領地を広げて生きました。
(2)京都で伊勢平氏が政権を握ると、平家と手を組み、源氏が台頭してきた時には時代に乗り遅れてしまいます。
(3)鎌倉時代になると鎌倉の源氏の家臣となり、後半には常陸の守護職を担うようになります。
(4)鎌倉時代には常陸北部の領地が守られ、さらにいわき市方面や、常陸国北部に多くの子孫が勢力を伸ばしていきました。

(次回へ続く)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/19 13:00
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