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常陸国における源平合戦(11) 佐竹氏(源氏)(室町~戦国時代)

源平合戦(11)


常陸国における源平合戦の11回目です。

前回は鎌倉時代の終わり頃(1333年?)までの佐竹氏の動向を書いてきました。
今回はそれ以降に戦国時代末に佐竹氏が常陸国を統一するまでの大雑把な動きを見て行きます。

北条氏滅亡後の争乱のなかで、小田氏は後醍醐天皇より「治」の一字を与えられ、建武の新政権へ参加することによって、勢力を回復しょうとし、常陸国の南朝方武士団の中心が小田氏であった。 一方、佐竹氏は、一貫して北朝方の中心にあった。
その結果、常陸守護の地位も佐竹氏が獲得した。1336年には、佐竹氏は南朝方の拠点となっていた久慈郡瓜連城(瓜連町)を攻めた。
約一年に及ぶ戦いの結果、佐竹氏は南朝方を破り、常陸国北部の支配を固めることになった。
この戦いの後、争乱の中心は常陸国の南部・西部に移った。

常陸佐竹氏関係図2

さて、上の図が、常陸国の佐竹氏の系図(室町~戦国時代末)となります。

9代 佐竹義篤(よしあつ)(1311~1362)

天皇が北と南に分かれてしまった南北朝の争乱期は、ここ常陸国でも大きな動きがありました。
しかし、常陸国内では南朝、北朝といっても、時によってここを支配していた領主たちは、どちらに味方するか右往左往している感がぬぐえません。佐竹氏は足利尊氏に味方し、常陸国の北朝勢力の中心として活動しました。

1336年に楠木正家によって瓜連(うりづら)城が築かれ、南北朝時代に南朝方(大掾高幹も含む)の拠点となり、北朝方の佐竹氏などと対峙しました。このときはまだ父の佐竹貞義の時代ですが、1336年に貞義は、瓜連城を攻めます。
しかし、敗北し子の義冬が討ち死にします。そして昔を思い出したのかまた平城の太田城を捨てて、金砂城へ籠もりました。

この金砂城を南朝側の那珂通辰が攻撃しますが、逆に佐竹軍の反撃にあい、瓜連城に退く途中に退路を断たれ那珂氏一族は討たれ、子の佐竹義篤が武生(たきゅう)城から迂回して瓜連城を急襲し瓜連城は落城しました。義篤は父とは別に(現在の竜神吊橋の近くの山城)武生城に籠っていて機会をうかがっていたのです。那珂勢の金砂城攻撃の知らせを受け、義篤は武生城を出て那珂勢を避けて山田川沿いに南下し瓜連城を背後から攻撃したのです。

佐竹義篤は晩年には禅宗に帰依し、常陸国那珂郡古内郷に清音庵(後の清音寺)を建立しています。

seionji48.jpg
(城里町の古内茶の産地である古内地区にある古刹・清音禅寺に残る五輪塔:佐竹貞義、復庵禅師、佐竹義敦の墳墓とわれている)
ブログ記事 ⇒ こちら

10代 佐竹義宣(義香)(さたけ よしのぶ)(1346~1389)

 初名は義香(よしか)といった。母は南朝方の小田知貞の娘で、その小田氏が小山若犬丸を匿った罪で鎌倉公方足利氏満の追討を受けた。佐竹氏は北朝側でしたが、小田氏と縁戚関係にあったため警戒されたようだ。
南北朝時代の南朝の勢力が失われようとしていた1387年に小田孝朝(たかまさ)の子・五郎藤綱が小山隆政若犬丸に加担して難台山城に籠った。この山城を攻めるのに8ヶ月かかった。
ここで佐竹家臣の江戸通高が討死しました。江戸通高は常陸守護の佐竹義篤の娘を妻としており、ここで戦死しますが、この戦いの褒賞として子の通景は鎌倉公方氏満から河和田・鯉淵・赤尾関などが与えられ、江戸郷から河和田へ本拠を移し、その後の江戸氏発展の拠点となりました。

国府石岡の有明の松の昔話 ⇒ こちら

11代 佐竹義盛(よしもり)(1365~1407)

 難台山の攻防で、北朝側が勝利し、その後の1389年に父・義宣が死去し家督を継いだ。
そして佐竹氏が鎌倉公方からり関東八屋形に任命された。江戸氏の娘を妻としたが、子供(男子)に恵まれず、1399年、鎌倉に多福寺(現在の大宝寺)を建立して、若くして入道となった。また、弟の義有は病弱であったため、佐竹氏の跡目を関東管領上杉憲定の次男・義憲(義人)を婿養子として迎えた。

12代  佐竹義人(よしひと)(1400~1468) 婿養子

 1407年に義盛が亡くなってしまい、跡目がいないため、関東管領上杉憲定の次男義憲(よしのり)が佐竹義盛の娘源姫の婿養子として佐竹氏の跡を継いだ。また名前は、1416年に義人(よしひと)と改名している。
ただ、これは佐竹氏の内部のお家争いに発展した。佐竹氏流の山入家の佐竹与義らが反対し、上杉禅秀の乱(前関東管領である上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱)では与義らが上杉禅秀方について同じ一族の稲木義信、長倉氏を征伐した。この乱では与義らは降伏したが、山入氏は室町幕府から常陸守護を拝命するなどして、佐竹氏の分裂が続き、義人への抵抗は続いた。
1437年に足利持氏と関東管領上杉憲実(義人の従兄)の対立が深刻化し、義人はこの両方の間に立って複雑な立場となった。しかし義人は一貫して足利持氏を支持したが、上杉氏の後ろ盾を失う事になり、義人は佐竹氏の家督を嫡男義俊に譲り、自からは足利持氏支持を続けた。また佐竹の実権も握っていた。
応仁2年(1468年)に義人が死去。享年68。

13代  佐竹義俊(よしとし) (1420~1477)

 1437年に父義人から家督を譲られたが、実権は父の義人まだが握っていた。また、父は弟の実定を可愛がり、1452年に弟の実定と組んだ江戸通房と山入祐義によって佐竹義俊は太田城から追放され、外叔父にあたる大山因幡入道常金を頼って大山城(城里町旧桂村)に入った。それから約30年、実質的な佐竹氏の城である太田城はこの弟の佐竹(上杉)実定が城主であった。
1065年に弟実定が死ぬと、義俊は1467年に甥の義定を太田城から追放し、義俊は嫡男義治と共に太田城に返り咲いた。

14代  佐竹義治(よしはる) (1443~1490)

 1467年に義治は那珂郡斧沼の要害(那珂西城)にいたが、11月に太田城に父と共に帰還を果たした。
そして、1477年に父・義俊が没したため家督を継いだ。
しかし、佐竹氏一族の内紛は続き、古河公方と通じた佐竹入家当主佐竹義知により佐竹北家の居城である北久米城(常陸太田市)が襲われ、城主久米義武が戦死するなど苦戦したが、岩城氏などの援助を受け、義知を討った。
山入家はこれで弱体化したが、今度は岩城氏により、佐竹氏の拠点(車城や竜子山城など)が次々と奪われた。ここで義治は岩城氏に車城など三城を割譲し、子の義舜の妻に岩城常隆の妹を迎えることで和議を結んだ。
1489年には山入家を継いでいた佐竹義藤の要請により伊達氏、蘆名氏(会津)、白河結城氏が佐竹氏領に侵攻した。
義治は家老の小野崎通綱(小野崎氏)の働きによりこれを退けた。

15代  佐竹義舜(よしきよ) (1470~1517)

 義舜は、この100年近く続いた佐竹氏の内乱に終止符をうち、失地の一部を回復させ、江戸氏や小野崎氏の内紛に介入して、戦国時代の支配体制を確立したため、佐竹氏の中興の祖と呼ばれる。

(1) 1490年に父・義治の後を受けて義舜が当主となったが、この直後に本家に反抗的であった佐竹山入家の佐竹義藤・佐竹氏義父子や長倉氏、天神林氏、宇留野氏らが手を組んで、太田城が襲われた。このときはまたこの城では持ちこたえられないと判断した義舜は太田城を捨て、母の実家の大山氏を頼り、孫根城に逃げ込んだ。
山入家の佐竹義藤が1492年に病死し、義舜の正室の実家である岩城氏が仲介役となり和議が話し合われた。しかし山入家を継いだ氏義はあくまでも義舜との抗争の継続に固執し、1500年に大山城の義舜を攻撃した。そして義舜はまた、佐竹氏の山城である金砂山城に逃げ込むこととなった。
(2) 1502年に、この金砂城を氏義は攻め、義舜は自害寸前まで追い詰められたが、何とか逃れることが出来、その後大門城(常陸太田市の山城)に移り、岩城氏などの援助を受けて、1504年には常陸太田城を奪回することに成功した。
そして、山入家の氏義・義盛父子は捕らえられ殺害され、反逆した佐竹山入家一族はその後滅ぼされた。
(3) 所領の一部を援助を受けた岩城氏らに割譲したが、その後は現在の久慈郡大子町辺りまで版図の拡大した。
(4) 1513年には、小田氏庶流である茂木氏を佐竹家臣団に組み込み下野国への進出に成功した。
さらに後に佐竹氏に組する事になる宇都宮家中に属している武茂氏(馬頭など)や松野氏(下野国那須郡松野郷)にも影響を与えた。
(5) 1514年 足利政氏の命で下野の戦国大名宇都宮成綱を攻めるが、宇都宮成綱の軍勢と結城政朝の軍勢に敗れ兵を引き上げた。その後ふたたび1516年に岩城由隆とともに大軍を率いて下野を攻めるが敗北。

16代  佐竹義篤(よしあつ)(1507~1545)

 1517年、父・義舜の死去に伴い、幼年(11歳くらい)であったが佐竹氏の家督を継ぎ、叔父の北義信が後見人となった。
しかし、若き義篤は佐竹家中を統率することはできず、弟の佐竹義元とは不和が生じ、ついには義元は享禄2年(1529年)に反乱を起こし常陸大宮の久慈川沿いにある、小貫俊通の居城・部垂(へたれ)城を攻撃、陥落させた(この城跡には現在常陸大宮小学校が建っています)。また、岩城成隆・江戸忠通が佐竹氏の領域に侵略すると、天分4年(1535年)にこれに呼応する形で、佐竹一族の高久義貞(城里町高久の城主)も反旗を翻した。
これに対し義篤は伊達稙宗の斡旋で江戸忠通らと和睦し、高久義貞を降伏させて反乱は終結した。
1538年、佐竹一族の宇留野長昌が反乱、1539年、那須政資・那須高資親子の抗争に介入、1540年、乱を起こした部垂城を急襲して宇留野義元を自害させた(部垂の乱)。
また、常陸以北の白河結城氏や那須氏と戦って勢力を拡大し、常陸国内においては江戸氏を従属させるなど常陸北部を統一し戦国大名としての地位を確立した。

17代  佐竹義昭(よしあき)(1531~1565)

 1545年、父の死により家督を相続した。常陸国北部の戦国大名としてその地位を守り、広げていった。
・1551年、小田政治と共同して江戸忠通を破った。
・1557年、宇都宮氏に内紛では、5000人の援軍を出し宇都宮広綱の宇都宮城への復帰に協力し、のち娘・次女の南呂院(なんりょいん)を嫁がせた。
・1558年、北の岩城重隆(妻の父、陸奥大館城主)の侵攻を食い止め和睦を結んだ。
・1560年、結城晴朝を攻めて勝利、白河晴綱の寺山城(福島県棚倉町)を攻めて勝利。
・1562年、上杉謙信と同盟を結んで小山城(下野国)を攻めた。
 32歳で隠居し家督を長男佐竹義重に譲る。本人は継室に大掾貞国の妹を迎え、その大掾氏の本拠地である常陸・府中城(石岡)に移った。病弱なためか、その3年後に35歳の若さで死去。

18代  佐竹義重(よししげ) (1547~1612)

戦国時代の常陸国を統一した武将で「鬼将軍」とも呼ばれ、佐竹氏の全盛期を築き上げた。
領内の金山開発にも積極的で、豊富な資金力を背景に関東一の鉄砲隊をもっていたとも言われる。

・1562年、父・義昭が隠居したため、まだ16歳くらいであったが家督を継いだ。
・1564年、越後の上杉謙信と共に小田城の戦いで常陸小田城主・小田氏治を敗走させた。
・1566年、小田氏治を攻めて小田領の大半を奪取し。下野国那須郡(馬頭)の武茂氏を攻めて部下にした。
・1567年、白河義親に大勝。
・1569年、手這坂の戦いにて片野城の太田三楽斎を使って、小田氏治に大勝して小田城を奪取。小田氏は土浦城に移る。
・1571年、相模国の北条氏政が勢力を強め、会津の蘆名盛氏や下総国結城の結城晴朝らと同盟を結んで、佐竹氏派の多賀谷政経を攻めた。このときは援軍を送って北条方を撃退した。(多賀谷氏は結城氏に組していたが、結城合戦で落ち延びて佐竹氏を頼っていた。)
・1572年、婚姻関係などを軸に各豪族と結び、白河結城氏や岩城氏などを傘下に収めた。
・1573年、北条方に寝返った小田氏治と再び戦って、その所領の大半を併合した。
・1575年、白河城を奪取。
・1580年、会津の蘆名盛氏が亡くなって跡目がいないため、二階堂氏からの人質となって会津にいた二階堂盛義の子盛隆が蘆名氏を継いだ。しかし、伊達氏などから攻められて苦戦していた。1584年に近従の大庭三左衛門に暗殺され、その後を継いだ盛隆の遺児亀若丸(亀王丸)も3歳で夭逝した。
・1587年、この蘆名氏の跡目がいなくなり、そこに目をつけた佐竹義重は会津に次男の佐竹義広を送り込み、盛隆の養女の婿入りで蘆名の跡を継がせた。佐竹氏と蘆名氏は同盟関係となり、伊達氏よりも南側(会津・仙道・海道)の諸大名の多くが事実上佐竹氏の傘下に入り、伊達氏との対立がさらに深まった。
・1588年、会津の蘆名はそれまで何度か伊達政宗との争いを繰り返してきたが、奥州の諸大名と連合して再び伊達政宗と戦うが、この戦(郡山合戦)は和睦で終った。
・1589年、蘆名義広は摺上原の戦いにおいて伊達氏に大敗を喫し、白河結城氏、石川氏などの陸奥南部の諸大名は伊達氏側に寝返り、奥州での佐竹氏の勢力はなくなった。
その後佐竹氏の家督を長男の義宣に譲ったが、まだ実権は握ったままだった。
・1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、義重は義宣とともに小田原に参陣し、石田三成の忍城攻めに加わった。
・その結果秀吉の後ろ盾を受け、義重は秀吉から常陸国54万石の支配権を認められた。

・1590年、常陸中部に勢力を振るっていた江戸重通を水戸城から追い出した
・1590年12月、府中の大掾氏を滅した。
・1591年2月には鹿島・行方両郡の南方三十三館と称される鹿島氏など大掾氏一族の国人領主を太田城に招いて謀殺した
(これが常陸国の源平合戦の最後)・・・詳細は後述。

・その後、義宣に実権を譲渡し、太田城にて過ごした。

19代  佐竹義宣(よしのぶ)(1570~1633)

 佐竹義重の長男として生まれ、母は伊達晴宗の娘であり、伊達政宗は母方の従兄になる。
・1589年11月28日、秀吉から小田原征伐への出陣命令を受けたが、当時、伊達政宗と対峙していたためにすぐに命令に従うことが出来なかった。しかし、秀吉自らが京を出立したという知らせを受けて、1590年5月、宇都宮国綱らを含めた1万余の軍勢を率いて小田原へ向かった。 1590年5月27日に秀吉に謁見した。そして、義宣は、石田三成指揮の下で忍城(おしじょう:現埼玉県行田市)を攻め、忍城水攻めの際の堤防構築を行っている。

・小田原の役後、義宣は、かねて伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について、秀吉から知行として認められ、常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計約35万石余を知行として認めるという御朱印状を与えられた。
・義宣は、朱印状による所領安堵されたことから、常陸国全域を支配することを企画し、
 1590年12月20日に水戸城から江戸重通を追い出し、その勢いで1590年12月22日には小川の園部氏などを味方につけ、府中(現石岡市)の大掾清幹を攻めて大掾氏を滅亡させた。
ただ、これらの戦は義宣はまだ京からの帰郷の途中で、父の義重が指揮をとっている。

・1591年2月9日、京から帰った義宣は、鹿島郡及び行方郡に散在していた「南方三十三館」の主たちをを領地割りの話し合いなどと偽って常陸太田の城に呼び集めて、全て抹殺し、常陸国の全域を掌握した。
・1591年3月21日、義宣は水戸城に移った。しかし、直後の6月、豊臣政権は義宣に奥州出兵2万5,000人という重い軍役を命じており、これは10月まで約4ヶ月間続いたとされる。

・1595年6月19日、太閤検地によって義宣は、54万石を認められた。
・1600年5月3日、徳川家康は会津征伐のため東国の諸大名を京都に招集し、義宣もこれに応じた。
・1600年7月24日、小山に到着した家康は、義宣に使者を派遣し、上杉景勝の討伐を改めて命じた。
この時期の佐竹氏は、家中で意見が分かれており、東軍につくとも西軍につくともいえないものであったようだ。
・関が原の戦いでは父の義重は徳川方(東軍)につくように強力に主張したが、義宣は、上田城に拠る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として、佐竹義久に率いさせた300騎を送っただけで、積極的に徳川家康に味方はしなかった。
・関ヶ原の戦いが東軍の勝利すると、父・義重はただちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。しかし義宣は水戸城を動かず、そのまま2年が経過した。家康からの処分もおおむね終ったころになり、佐竹義宣はようやく1602年4月に上洛して家康に謝罪した。
1602年3月、義宣は徳川家康に謁見した。その後の同年5月8日、義宣は家康から国替えの命令を受けた。しかし転封先は明らかにされず、5月17日になって転封先が出羽国秋田郡に決定した(54万石から20万石への減)。
・1602年9月17日、義宣は秋田の土崎湊城に入城し、翌年から久保田城の築城はじめ、こちらに移った。江戸崎、龍ヶ崎などを領していた弟の(蘆名)義広は、角館城に入った。

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戦国時代の動きは早く複雑ですので、また後日、戦国時代の城の位置関係などと共に検証してみたいと思います。
読むだけで大変なのですが、まずは佐竹氏の流れを理解する所までを羅列しました。
後から振り返るときに理解が深まると思いますので、ご容赦の程お願いします。
(自分の備忘録でもあります)


常陸国における源平合戦 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2021/06/20 14:07
コメント
ふるうち
佐竹氏の記録、興味深く拝見しています(コメントは遅れて…)。
記事の中に古内(ふるうち)や錫高野(すずごや)という私には懐かしい地名が出てきて、いままで本拠地の常陸太田や水戸・石岡のこと以外見過ごしていた事を思いました。上の地名の場所には親戚があり、しばらく訪れていませんが、思い出のある場所で、ただしこんな田舎になぜ住んでるのかという子供の記憶しかありません。今は田舎でも400年昔は要衝だった場所もあるのでしょう。
労作に敬意を表します。今後にも期待させて頂きます。
忠顕 さま
 ご無沙汰しております。コメットありがとうございます。
この常陸国の源平合戦も書き始めたのは良いのですが、結構深くてどこまでまとめておくか頭が整理できていません。
他のこともあるし、現地を確認しておきたいこともあるのでのんびりもう少し続けてみようと思っています。
更新間隔が不定期になりますが、時々のぞいてみてください。
コロナもオリンピックも何か騒がしいですが、年寄りはのんびり調べ物をしたりするには影響はあまりありません。
「古内」「錫高野」なども昔訪れただけで、その時はあまり佐竹氏のお家の事情などには考えが及びませんでした。
柿岡城に那珂川大橋近くの山城にいた長倉氏が移ってきていましたが、この頃から始まった祭、神楽などが残っていますが、地元民はあまり理解されていないようです。

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