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常陸国における源平合戦(12) 奥七郡(佐竹氏の根拠地)

源平合戦(12)

常陸国における源平合戦として記事を書き始め、前回11回目を書いたのが6月20日。
あれから2ヶ月も経ってしまいました。
少しずつでも書いていきたいと思っていたのですが、まとまらなくなってしまい、調査にも出かける余裕もなくなっていました。
また、コロナで出歩くのも躊躇せざるを得ない状況ですが、今年中に纏める目標として残りも少しずつUPしていきたいと思います。
(前回までの記事は ⇒ こちら から)

今回は戦国時代に常陸国を制した佐竹氏(源氏)がよりどころとした領地は「常陸国奥七郡」と呼ばれる地域だといわれています。
この奥七郡という言い方はあまり南部のほうでは呼ばない名称だと思い、今回調べてみました。

奥七郡

奈良時代からの律令制で決められた国家では、常陸国風土記に記載されているものとしては、常陸国には11の郡が置かれました。
その北部の地域は那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の3つの郡に分かれていました。
この3つの郡をそこを流れる川の東西で分割して、多珂、佐都東、佐都西、久慈東、久慈西、那珂東、那珂西の7郡に分け、奥七郡と呼んでいるようです。

日立市に注ぐ宮田川(昔は助川:スケは鮭のことで鮭がとれる川の意 )の北側が多珂郡、常陸太田市を流れる里(佐都)川の東西で佐都東郡と佐都西郡。また久慈川の東西で久慈東郡と久慈西郡、また佐都郡と久慈郡の境には山田川が流れています。
那珂川の東西で那珂東郡と那珂西郡です。

この地域は訪れてみれば分りますが、これらの川の領域に沿って道路、住居、田畑がありますが、その間は険しい山並みが続いています。
そのため、この地域には大きな平野は存在していません。

この地図で北西部の大子町周辺は白色となっており、依上保(よりかみのほ)となっていますが、ここは昔は常陸国ではなく陸奥国白河郡でした。
そこを白河結城氏が領していましたが、永正七年(1510年)に佐竹義舜が結城氏を追い出して、佐竹氏が支配するようになりました。
さらに太閤検地(1595年)により、この地が佐竹氏の領地として認められ、陸奥国から常陸国になりました。
(江戸時代になり佐竹氏が秋田へ移ってからは水戸藩の領地となりました)

この常陸国の源平合戦の10回と、11回で代々佐竹氏の系図を書いていますが、ここに改めて、また示しておきたいと思います。

常陸佐竹氏関係図1
常陸佐竹氏関係図2

前回(10回、11回)に佐竹氏歴代の当主の流れや歴史を紐解いてきましたが、大きな流れだけを少しもう一度振り返って見たいと思います。

1) 佐竹氏は後三年の役で、八幡太郎義家の援護に後から自分の官職をなげうって参戦した新羅三郎こと源義光が常陸介としてやって来て、桓武平氏がこの地の豪族となって南部を中心に勢力を拡大していた中で、水戸近郊に進出していた平氏一族の吉田氏(馬場城主吉田清幹)の娘を息子(義業:よしなり)の嫁にして、血縁関係を深め、常陸国での勢力を拡大していきます。

2) 義業の息子・昌義(まさよし)が在京平氏の平快幹の娘を妻(先妻)に迎え、また奥州藤原氏の清衡の娘を後妻に迎えて、常陸南部の吉田氏(平氏)と奥州藤原氏の力を背景に常陸国北部の奥七郡へ勢力を拡大していきました。1133年に常陸太田市天神林にあった馬坂城を藤原秀郷流の天神林正恒から奪い馬坂城の城主となります。その後、昌義は久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に住み、佐竹氏と称しました。

3) 2代佐竹隆義(たかよし)の代に藤原秀郷の流れをくむ小野崎通長を服属させ小野崎氏の居城だった(常陸)太田城(現在大田小学校がある)に入り、その後の佐竹氏の主城となり、周りの豪族たちを味方にしていきます。

4) 源頼朝が治承4年(1180年)10月、富士川の戦いに勝利した後、上総広常らの進言により、都の平氏を討つまえに後ろの憂いを除くため、常陸国北部に勢力を張ってきたこの佐竹氏排除に常陸国国府(石岡)にやってきます。そこで上総広常は、縁者である佐竹家の嫡男・佐竹義政と弟(三男)秀義へ頼朝に忠誠の挨拶に来るように使いをだし、この誘いに応じた兄の義政は国府に向かう途中の大矢橋上で上総広常に切り殺されてしまいます(大矢橋事件)。この時、弟の佐竹秀義は、太田城を棄てて北部の山城である金砂城に立て籠もりました。(金砂城への立て籠もり:1回目)
頼朝軍の金砂城へ総攻撃に対し、ここの地形が険しい山城であり、すぐに落とすことが出来なかったが、秀義の叔父の佐竹義季に城を攻撃させ、佐竹秀義はさらに北部の花園城へと逃亡しました。その後、領地であった太田城などは放棄し、金砂城、花園城、武生城などの要害堅固な山城に立て籠もりを続けました。

5) 源平合戦で源氏が勝利した後、頼朝は奥州藤原氏に逃げ込んだ弟の源義経を攻めた。この時に佐竹氏は頼朝軍に加勢して、頼朝から罪を許されて家臣となり、その後、鎌倉御家人の一人に列せられ、鎌倉時代後半には常陸の守護職を担うようにもなります。また、この鎌倉時代には常陸北部の領地が守られ、さらにいわき市方面や、常陸国北部に多くの子孫が勢力を伸ばしていきました。

6) 南北朝時代になると、常陸国の南朝方武士団の中心がつくばの小田氏(八田氏)であり、北朝方の中心が佐竹氏であった。1336年に南朝方の拠点として楠木正家によって瓜連(うりづら)城が築かれると、佐竹貞義氏はこの(久慈郡)瓜連城を攻撃しました。しかし、貞義は敗北し、子の義冬がここで討ち死にします。また平城の太田城を捨てて、金砂城へ籠もりました。(金砂城への立て籠もり:2回目)
この金砂城を南朝側の那珂通辰が攻撃しますが、逆に佐竹軍の反撃にあい、瓜連城に退く途中に退路を断たれ那珂氏一族は討たれ、子の佐竹義篤が武生(たきゅう)城から迂回して瓜連城を急襲し瓜連城は落城しました。その後南朝勢力が立て籠もった難台山の攻防で北朝側が勝利して佐竹氏は安泰となりますが、難台山の戦いで佐竹家臣の江戸通高(佐竹義篤の娘を妻としていた)が討死しましたが、この戦いの褒賞として子の江戸通景は鎌倉公方氏満から河和田・鯉淵・赤尾関などが与えられ、江戸郷から河和田へ本拠を移し、その後の江戸氏発展の拠点となりました。

7) その後佐竹家は義盛(よしもり)が家督を継いだが、男系の子供に恵まれず、若くして入道となり、佐竹氏の跡目を関東管領上杉憲定の次男・義憲(よしのり)(後に義人と改名)を婿養子として迎えた。しかし、これに佐竹氏家系の山入家の佐竹与義らが反対し、その後100年ほど続いく佐竹家の内乱に発展した。13代 佐竹義俊(よしとし)は1437年に父義人から家督を譲られたが、実権は父の義人まだが握っており、父は弟の実定を可愛がり、1452年に弟の実定と組んだ江戸通房と山入祐義によって佐竹義俊は太田城から追放され、外叔父にあたる大山因幡入道常金を頼って大山城(城里町旧桂村)にいたが、1467年に太田城に返り咲いた。しかし、内紛により弱体化した佐竹氏の常陸奥七郡の領地は北部の岩城氏などにより次々と奪われた。また伊達氏、蘆名氏(会津)、白河結城氏が佐竹氏領に侵攻した。

8) この100年近く続いた佐竹氏の内乱に終止符をうち、失地の一部を回復させ、戦国時代の支配体制を確立したのは、15代佐竹義舜(よしきよ)である。しかし、義舜も本家に反抗的であった佐竹山入家の佐竹義藤・佐竹氏義父子や長倉氏、天神林氏、宇留野氏らが手を組んで、太田城が襲われたときには、太田城を捨て、母の実家の大山氏を頼り、孫根城に逃げ込んだ。山入家を継いだ氏義が1500年に大山城の義舜を攻撃したため、義舜はまた、金砂山城に逃げ込んだ。(金砂城への立て籠もり:3回目)
1502年に山入家の氏義に金砂城が攻められ、義舜は自害寸前まで追い詰められた。 しかし、何とか逃れた義舜は1504年に常陸太田城を奪回することに成功し、反逆していた山入家一族は滅ぼされた。(内紛の終焉)

9) その後常陸北部を掌握した佐竹氏は、戦国大名としてその地位を守り、広げていった。18代 佐竹義重(よししげ)により戦国時代の常陸国を統一がなされ、佐竹氏の全盛期が築き上げられた。

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/19 12:05
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