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常陸国における源平合戦(13) 金砂山城

源平合戦(13)

戦国時代に常陸国を制した佐竹氏(源氏)も12世紀始め頃より戦国末期に水戸城へ移るまでの約500年間を、常陸太田の城を中心として活躍しました。
しかし平城であった常陸太田城は攻撃を受け易く守るには不向きでした。
このため次の3回にわたり、この城を棄て、北部の金砂山(かなさやま)に逃げ込み、その都度助かっています。
この難攻不落と言われた金砂山城がなければ常陸国の歴史も変っていたかもしれません。

1回目: 1180年、京都の平氏討伐に向かう前に、後塵の憂いを絶つとして、源頼朝軍は常陸国北部に勢力を持っていたこの佐竹氏を攻撃しました。当主は京にいて留守で、長男、三男の2人の兄弟でが常陸太田の城を守っていました。
兄義政は源頼朝、上総介広常の誘いに応じて国府へ向かう途中切り殺され、弟秀義は金砂山に逃げ込みました。
  そして金砂山城から花園城、武生城などの要害堅固な山城に立て籠もりを続け、生き延びたのです。
  
2回目: 1336年、南北朝時代に南朝派の拠点である瓜連(うりづら)城との戦いに敗北して再び、太田城から金砂山城へ立て籠もりました。このときはその後瓜連城を攻略して返り咲きました。

3回目: 1492年、佐竹家継続に上杉家からの養子を立てたことによる佐竹氏内部のお家騒動により、佐竹派の山入家より攻撃を受け、金砂山城に3度目の篭城。このときはかろうじて助かり、1504年に逆に山入家を攻略して、太田城を奪還しました。

このように佐竹氏のピンチを救ったのが、この金砂山(かなさやま)城でありました。
そこで、どのようなところか訪れてみる事にしました。

金砂山

常陸国北部には、久慈川と山田川に挟まれた山脈が北から南に連なる奥久慈男体山(標高654m)を中心に400m~600mクラスの久慈山地(男体山地)が続いています。
この山地の南側に標高410mの西金砂山があり、その山頂に西金砂神社の本殿があります。
この男体山地は久慈川側から見ると山の上部は岩肌がむき出しになった山肌が多く、西側が険しくなっており、この西金砂神社の本殿も山頂部で、西側は険しい崖になっています。

金砂山城は、この神社の拝殿の下の少し平に開けた駐車場近くのようです。
車でこの駐車場(歴史資料館がある)まで行く事が出来ますが、上り口は西側からと東側からとがありますが、今回、西側の水郡線の山方宿方面からから日帰り温泉施設である「金砂の湯」の横を通って山の方に入る道を行く事にしました。

「金砂の湯」は何度か利用したことがあるので、道は分ります。ただこの先を奥に上っていくので多少不安がありました。
暫く行くと「少し開けた所に出ました。
「金砂郷ポケットファーム」というところのようです。ただ何もありません。
神社の鳥居がこんな所にあります。

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鳥居の先に続く山道が心配ですが、鳥居の脇に「上にP(駐車場)あります」と大きく出ています。

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まあ大丈夫だろうと上り始めましたが、道は狭く、結構急なジグザクカーブ道が続きます。
上から車が来たらよける場所がほとんどありません。

戻る訳にもいかずにびくびくしながら進むとしばらくして平坦な歴史資料館の建物(現在工事中でした)の所に出ました。
少し進んだ所に広めの駐車場がありました。

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駐車場の北側を上った所に神社はありますが、城址はこの駐車場側の神社と反対側に少し土を盛って平らになったあたりにあったようです。
恐らく城というより館があったのではないかと思われます。

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神社拝殿はこのふもとの鳥居をくぐって100段近い石段を上った所にありました。
鳥居の横には銀杏の古木が歴史を感じさせてくらます。

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両側に杉の木が並木のように続く参道の苔むした石段を1段ずつ登っていきます。

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上は少し平坦な場所もあり、少しおくに立派な神社の拝殿がありました。
社務所は右側を降りた所(駐車場近く)にあります。

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これが拝殿です。
縁の下には木鼻として使われたらしい獅子の像がたくさん睨みを利かせていました。

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本殿は更に上った山頂にあります。
今回はここで引き上げましたが、余り遠くでもなかったようですので、行かれることが在れば上まで行って見てください。

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帰りは東側に下りてみました。
こちらは「そば街道」と呼ばれているようで、ところどころに展望台という矢印が出ていましたので、結構山の景色も素晴らしいのかもしれません。
暫く降りた所に「西金砂そばの里」というソバ処がありましたが、時間が午後2時頃までのようで、私がついたのが2時半頃でしたの閉まっていました。

もし行かれるなら、西側の道は余りお勧めできません。
東側に道はそれなりに広く、勾配も緩やかで、車のすれ違いも問題ありません。

佐竹氏もここなら山城とはいえ、暫くの篭城も容易だったのかもしれません。
また、北、西側は天然の要害といえる崖が連なっていますので、守りやすい場所だったのだと思います。






常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/22 17:34
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