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常陸国における源平合戦(14) 南部に広がった常陸平氏一族

源平合戦(14)

今回は常陸国北部に領地を拡大した佐竹氏(源氏)に対し、水戸から南の地に勢力を持っていた常陸平氏の一族にスポットを当てて見たいと思います。

一般には桓武平氏の高望王の長男・平国香が常陸国の大掾職をしていた豪族、源護(みなもとのまもる)の娘を妻にして常陸国に進出しその子孫が勢力を拡大したといわれています。
この平国香からは、後の平家として都で天下を取った伊勢平氏である清盛なども排出ています。

この平氏の実際の流れは以前の本シリーズで下記にて説明して来ましたので詳しくはそちら(下記)を参照してください。

・常陸国における源平合戦(3) 常陸国における平氏のはじまり ⇒ こちら

・常陸国における源平合戦(7) 常陸大掾氏(多気大掾) ⇒ こちら

・常陸国における源平合戦(8) 吉田(馬場)大掾氏 ⇒ こちら

平将門の乱(939年)を鎮圧して、常陸南部に平国香の一族が勢力を張る事になります。

その常陸平氏の本家となったのがつくば市北条にある多気山に城を築いた多気氏です。
この多気氏は鎌倉幕府が始まった1193年にすぐ近くに進出して来ていた八田氏(小田氏)の換言により源頼朝により鎌倉に呼び出されて、所領を没収され潰されてしまいます。

しかし、その前にこの一族から何人もの氏族が常陸南部に散らばっていました。

主な氏族を書いておくと

平(多気)繁幹の息子
 ・長男 致幹(多気氏)
          ⇒直幹(多気) ⇒ ・広幹(下妻氏)
                      ・忠幹(東条氏)
                      ・長幹(真壁氏)
 ・次男 清幹 吉田郷へ (吉田氏)
 ・男 政幹 下総国石下⇒豊田郷 (豊田氏)
 ・男 重家 小栗御厨 (小栗氏)

<下妻氏>(平安時代末期)
 常陸平氏の下妻氏は平安時代末期に下妻の「大宝城」を拠点に勢力を持っていたが、同氏は没落して、下野の豪族小山氏の庶流の下妻氏が大宝城に入った。
<東条氏>(平安時代末期)
 東条氏は、稲敷の東条荘を領するようになって東条氏を名乗るようになった。南北朝時代には、南朝の北畠親房が東条氏を頼り、常陸国にやってきた。そして、神宮寺城や阿波崎城に拠ったが、北朝勢力に押されて衰弱した。
<真壁氏>(平安時代末期~)
 平安時代末の1172年に、平長幹が真壁郡司として郡内真壁郷に入部し、真壁氏を名乗り、ここに真壁城を築城します。鎌倉時代になると鎌倉御家人に加わり、鎌倉~室町時代には郡内に一族を分立させて、「真壁領」を形成します。戦国時代には、常陸国内で大きな勢力を有していた佐竹氏の同盟者として臣従し、1602年には佐竹氏の秋田移封により、秋田角館に移りますが、家臣の多くはこの地に残り、現在の真壁の礎を築いています。
<石下・豊田氏>(平安時代末期~戦国時代)
 豊田氏は当初石下に住み、石下氏を名乗った。その後直ぐ隣りの下総国豊田郡(現茨城県常総市本豊田)に城を築いて豊田氏を称した。戦国時代には小田氏治と同盟していたが、1578年(天正6年)に多賀谷氏により滅ぼされ、城は多賀谷氏が支配しました。
<小栗氏>
 小栗氏は平安時代末期に旧協和町(現桜川市)の栃木県よりの一帯(小栗郷)に居を構えて小栗氏を称した。また自分の領地を伊勢神宮に寄進して「小栗御厨(おぐりのみくりや)」となり、小栗氏はこの御厨の下司(げし)、地頭としてこの地の世襲が続いた。
鎌倉時代には鎌倉御家人となり更なる発展をしたが、1416年に前関東管領である上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱(上杉禅秀の乱)では、禅秀に味方して鎌倉公方の足利持氏と対立した。その後この乱は収まるが、小栗満重は、小栗城に籠城し持氏と戦い敗北してはまた奪還し、これを3度繰り返した。最後は1423年に小栗満重は自害して滅んだとされる。
しかし、満重の子の助重は持氏の死後、何とか小栗の地を取り戻した。ただ、成氏との戦いで敗北した上杉持朝を栗城に匿った事により、1455年に成氏に攻撃されて小栗氏は滅んだ。
後に数々の伝説を生み、小栗判官、照手姫、小栗十勇士などの話が、歌舞伎などで語られ、演じられている。

このように、戦国末期の頃にはこの常陸平氏一族は水戸近郊の吉田氏から始まる水戸南部に展開される氏族と真壁氏が佐竹氏と手を組んで生き残っていた以外は多くがその姿を消していた。

常陸平氏一族

鎌倉幕府により没落した北条の多気氏にかわり、頼朝は1193年に常陸大掾(だいじょう)職と多気氏の所領を水戸の近郊那珂郡吉田郷に進出していた平清幹の長男の系列の吉田(馬場)資幹に与えた。そして、常陸平氏本家を継承した吉田資幹は水戸に水戸城(馬場城)を築城した。
また、1214年に鎌倉幕府より、常陸府中(石岡)の地頭に任じられ、水戸と府中(石岡)の両方を行き来するようになった。
その後常陸国の大掾職を継承して「常陸大掾氏」となった。

(平国香より続く常陸平氏の本流であった多気氏もその何人かは常陸大掾職となっており、多気大掾氏と称するとも言われてきましたが、常陸国国府の書類等での記録が余り確認されていないため、最近では、この吉田(馬場)資幹以降を常陸大掾氏とするという考え方が学者の中心となってきているようです。)

平(吉田)清幹の次男・忠幹は行方地方に進出し、行方氏を名乗った(行方次郎)。

三男・成幹は鹿島地方に進出して鹿島氏を名乗った(鹿島三郎)

南方平氏

戦国末期に常陸国は佐竹氏(源氏)がこれらの平氏一族を一気に滅ぼし、常陸国を統一します。
これらの詳細については次回へ。



常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/24 11:35
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