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常陸国における源平合戦(16) 府中城落城(大掾氏の滅亡)

源平合戦(16)

豊臣秀吉の後北条氏一族やこれに味方する東国の勢力を一掃するため行った小田原攻め、東国攻めは、天正17年(1589年)11月に宣戦布告を行い、翌年(天正18年(1590年)7月5日に北条氏直が降伏して、決着がつきました。
そして難攻不落の埼玉県の忍城(おしじょう)が7月16日に開城されて、ほぼ制定されたといわれています。
東国では山中城、韮崎城、足柄城、厩橋城、松井田城、玉縄城、江戸城、下田城、箕輪城、河越城、小金城、臼井城、鉢形城、本佐倉城、岩槻城、武蔵松山城、館林城、鉢形城、八王子城、忍城・・・と徳川家康軍、石田三成軍、前田利家軍、真田昌幸軍などが参戦して次々と攻略されていきました。

常陸国では
・江戸崎城(土岐氏)の開城:1590年5月20日
・龍ヶ崎城(土岐氏弟)の開城:ほぼ江戸崎城と同時期と思われる
・牛久城(岡見氏):1586年、下妻の多賀谷氏により、岡見氏の支城である谷田部城と足高城を落とされ、この牛久城も落城し岡見氏は滅んだ。その後群馬県太田の由良国繁が入城した。小田原の北条攻めでは、この由良は北条方であったが、国繁の母の功績で牛久五千石を安堵された。
・土浦城(菅谷氏):1590年小田氏はすでに佐竹氏に降伏しており、菅谷氏が奪還して城主となっていたが、秀吉の小田原攻めには参陣せず、菅谷範政は土浦城を出て真壁郡高津村にて蟄居し、土浦城は結城城主で家康次男の結城秀康の支配下となった。

さて、小田原の役、東国攻めは天正12年の7月末ごろにはほぼ決着しました。
当時石田三成を助けたことから、三成にかわいがられた佐竹氏は常陸54万5800石の大名として認められ、秀吉の築城した大阪城を守るように城の西側に大きな屋敷を構えたようです。

徳川家康、上杉・毛利・前田・島津などと並んで、佐竹氏は豊臣の六武将の一人とまで言われていた佐竹氏の大坂の屋敷跡は、最近になって発掘され、東西約150メートル、南北約100メートルという管理の大きさであったことが確認されました。

南部の土浦や下館などは結城氏の所領となり、中部・北部は佐竹氏で決着はついたのですが、水戸一帯の江戸氏、及び常陸平氏の流れをくむ常陸国府の大掾氏およびその同属の諸派など佐竹氏に敵対する勢力がまだかなりありました。

そして当主である佐竹義宣は秀吉からこの常陸国南部の領主たちの掃討を命じられたのではないかと思われます。

1590年の年末頃にはまだ義宣は大阪におり、この江戸氏と大掾氏の攻撃には父の鬼将軍と呼ばれていた義重が当りました。
まず、水戸城にいた江戸氏に城の明け渡しを要求しました。
しかし、これが拒否されると、12月19日に水戸城を急襲し、続けて20日にはその周りの勢力21支城を攻略してしまいます。
水戸にいた江戸氏は結城氏を頼って落ち延びました。
そして次々に味方を増やし、21日には小川の園部氏を使って府中城を攻略したのです。

府中城は、街を含んだ自然の要害を利用した中世の城であり、江戸時代の兵法家の山鹿素行が赤穂に謫居(ちっきょ)していた時に書かれた兵法書の謫居童問に、陸奥の多賀城、筑前の怡土城と並んで日本の三名城と書かせたほどのものであったといいます。
しかし、如何に攻めにくい城であっても、武力や武器などは北部に金山などを持っていた佐竹氏にかなわなかったようです。
最後は城に火を放たれ、燃え盛る城で自害したとか、逃げ延びた寺で自害したとか・・・・
父の死で5歳にして家督を継いだ大掾清幹(きよとも)も当時はまだ20歳前の若者でした。
妻はこの城攻めの先陣を切って迫ってくる園部氏からむかえたが・・・・。
この無念の思いがいくつかの伝説を生んでいます。
 ・鈴ヶ池と片目の魚 ⇒ こちら
 ・残念坂 ⇒ こちら
 ・三村城秘話 ⇒ こちら


府中城の落城前には、大掾氏の幾つもの砦や支城がありました。
それを地図に表わしてみました。

府中城の攻防


時代は天正時代(1573年から1592年)及びその少し前の時代を想像しています。

まず石岡に府中城(大掾氏)が平氏の棟梁として居を構えています。
そして小川城(地図の右側の方)に享禄元年(1528)に小田氏の家臣、園部兼泰が城主となります。(園部氏)

1551年に江戸氏や小田氏との係争を繰り返してきた大掾慶幹が死去し(1551年)、江戸氏、小田氏、園部氏(小田派)に対する備えをする必要から、府中城は長男大掾貞国が継ぎ、江戸氏が南下して築いた砦「堅倉砦」(地図の上方)に対峙するために園部川の近い所に「竹原城」を築いて(1555年)、四男の義国を守らせ、小田氏に対抗するための城として三村城(図の左下の方)を築きます。
そしてそこには7男?常春が城主となります。

しかし、この城は1573年(天正元年)2月に、小川の園部氏攻撃に城兵が出かけているすきを小田氏の軍勢につかれて城は炎上し、常春は自害してしまいます(常春は25歳)。(三村城秘話→こちら)

その後、江戸氏は小川の園部氏とも手を結び、また佐竹氏もこれに加わって府中の大掾氏をせめ、小田氏は佐竹氏に攻められて、1574年(三村城炎上の翌年)に小田氏の拠点土浦城が佐竹氏の攻撃で陥落してしまいます。
この辺りの攻防はかすみがうら市の出島散歩でも時代の流れを感じました。
(宍戸城跡(こちら)、戸崎城跡(こちら)など)

それから府中大掾氏が滅ぼされる1590年末まで17年。ここでの攻防が続いたのでしょう。
その戦闘や人びとの暮らしはどんなだったのでしょう。東に園部、北に江戸氏・佐竹氏、南に小田氏やその後やってきた佐竹派の家臣に囲まれてしまったのです。

西の八郷地区は佐竹派の客将太田三楽が片野城におりましたが、これも大掾氏とも姻戚関係を結んだりしていてあまり主だった闘いの記録はありません。

そんな中、府中の大掾氏の城主大掾(平貞国)は1577年に戦死してしまいました。
後を継いだのはまだ5歳の大掾清幹(きよとも)でした。

周りは敵だらけ、そしてその侵入を防ぐために各地に造られた要塞(砦)。

一つ一つ見ていくとこの頃の戦の流れが見て取れるようです。
でも多くがその時代の事をほとんど残しておらず、記録も断片的に切れ切れです。

数年前に、小川の園部氏との最前線基地となった取手(砦)山で道路建設のために発掘調査がありました。
そこからは当時の鉄砲の弾が見つかり、また砦の出入り口として掘られたと見られるトンネル跡が見つかっています。
その取手山の記事は ⇒ こちら を参照ください

次回以降、「南方三十三館仕置」といわれた事件の内容を調べてみたいと思います。
ただ残された資料も少ないので、これも伝承などで語り継がれた内容などを頼りにすることになりそうです。


常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/27 15:43
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