常陸国における源平合戦(17)南方三十三館仕置(1)

常陸国の源平合戦もいよいよ最後に近づいてきました。
今回からは源氏であった佐竹氏が天正19年(1591年)に常陸国の覇者となる最後に行った「南方三十三館の仕置」とよばれた事件の概要がどんなものであったのかを探るものです。
秀吉は天下統一のため、最後に小田原攻め、東国攻めで後北条氏とそれに味方する諸氏をことごとく打ち破りました。
その後、この小田原攻めに参加しなかった常陸国の領地(南部の結城氏を除く)はほぼ佐竹の領地として認められたのです。
天正18年12月に、佐竹氏は水戸城の江戸氏を追放し、常陸国の平氏頭領である府中(石岡)の(常陸)大掾(だいじょう)氏を壊滅させました。
そして、翌天正19年2月に南方三十三館と呼ばれた多くの領主を常陸太田の城に呼び出してこれをすべて謀殺したといわれています。
その後に自らの仲間でもあった額田(那珂市)にいた小野崎氏を攻撃して滅ぼし、常陸国を一気に掌握しました。

さて、南方三十三館の領主とは具体的に誰を指すのでしょうか?
南方は恐らく水戸より南の地域を指すものと思われます。
ただ三十三館の数については33の館という意味ではなく、多くある、沢山の館という程度のようです。
上の図にその当時の主だった城(館)の領主を示します。
またその殆んどが平氏の一門から水戸郊外の吉田に居を構えた吉田氏から派生した一族です。
ここに示していない館の主もまだ沢山います。
この南方三十三館仕置に関して、記録はあまり残されていないのですが、江戸時代後期に書かれた「新編常陸国誌」に記載されているのは、和光院過去帳と六地蔵寺過去帳の2つの記述が元になっています。
<和光院(水戸市田島町:北関東三十六不動尊霊場二十六番札所)過去帳>
天正十九年季辛卯二月九日 於佐竹太田ニ生害ノ衆
鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、
アウカ殿、小高殿父子、手賀殿兄弟、武田殿 以上十六人
和光院は内原の古墳公園の北東側にあります。結構周りに古墳も多いところです。
<六地蔵寺(水戸市六反田町)>
島崎安定とその子・徳一丸(過去帳では一徳丸)の死のいきさつが書かれている。
・安定は「上ノ小河」において「横死」
・一徳丸は「上ノ小川」において「生害」

水戸から大洗方面に行く国道51号線近くにこの六地蔵寺はあります。
前に訪れたときの記事は下記を参照ください。
・六地蔵寺(1) ⇒ こちら
・六地蔵寺(2) ⇒ こちら
記録はこの2つです。9氏16人となっており、三十三館ではなく9館になってしまいますが、その後に書く残された館も一斉に降伏または攻め滅ぼされたりしていますので、かなりの数に上った事は間違いありません。
鹿島殿父子、カミ とある「カミ」は、鹿島城の城主鹿島清秀の妻のことだと解釈されています。
鹿島清秀とその息子が殺されたことを知ったその妻は、鹿島城に篭城し、佐竹軍に徹底抗戦しましたが、戦死したといわれています。この妻のことを「カミ」と表現したものと思われます。
(続く)
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