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常陸国の源平合戦(18) 南方三十三館仕置(2)

源平合戦(18)

 前回、佐竹氏が天正18年(1590年)2月9日に水戸以南の常陸平氏系を中心とした館(城)の領主を、常陸太田の城に集めて、皆殺しにしたとされるが、寺(和光院)に残された過去帳などでは9館、16人となっている事を書きました。

ではどのように呼び出されて、どのように殺されてしまったのでしょうか?
具体的に書かれているものが余りないようであり、また推察がそこに入り込んだりしていますので正確に判断する事は大変難しそうです。
一部では毒殺されたのではないか?とか 取り囲まれて一斉に切り殺されたのではないか?など・・・・
ただ、領主も腕の立つ家来を多少は連れて出かけているはずです。
そう易々と皆殺しにあったとも考えられません。

でも、常陸国の北部に点々とその痕跡(終焉の地)を示す場所が残されているのです。
私も先日から、その場所を探して訪ねてみる事にしました。

<南方三十三館主たちの終焉の地>
南方三十三館終焉の地
(クリックで地図は拡大できます)

現在その各氏の終焉の地と言い伝えられて残されている場所は、上の地図に示した6箇所です。
すべて佐竹氏の本丸(常陸太田城)の北方です。
太田城に招かれたのは、すべて水戸より南の城の主たちです。
逃げるとすれば、南に逃げたいところでしょうが、恐らく南側を佐竹派の武将たちが固めてしまっていたことを示しているといえるでしょう。
また、各城主たちをバラバラに分散させて遠方の佐竹派の重鎮たちのいる城へ移動させたようにも見えます。
そして、そこで言いくるめて自害をさせた・・・・・・ など。

ここには、鹿島殿父子、島崎殿父子、釜田(烟田)殿兄弟、中居殿、玉造殿父子の5氏9名のみであり、その他の武田殿、アウカ殿、小高殿父子、手賀殿兄弟の4氏6名についての情報はない。

1) 鹿島殿(鹿嶋)と島崎殿(潮来)は当時比較的大きな勢力を持っており、これを常陸太田より離れた久慈川沿いの南郷街道(現:国道118号)方面に導いたものと考えられる。

2) 中居氏と釜田(烟田)は共に常陸太田から北上する里川沿いの旧棚倉街道(現:国道349号線)沿いの比較的常陸太田に近い場所で終焉をむかえています。中居氏も烟田氏も本家筋とは言えず、それほど大きな勢力を持っていたとは思われません。

3) 玉造氏ですが、行方地方で比較的大きな勢力だったと思われます。
場所は、日立市の常陸多賀駅に近い高台のお寺に墓が残されています。
常陸太田から東側で、街道もありますが、現在の南側を回る道ではなく、少し北側の山道となった道を通っていたものと考えられます。

4) 残りの4氏6名については、終焉の地として記録されたものがなく、常陸太田の城で殺害されたのかも知れません。

それでは次回からこれらの地を順に回ってみましょう。何かが見えてくるかもしれません。

 

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/31 12:03
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