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常陸国における源平合戦(20) 鹿島氏終焉の地

源平合戦(20)

 鹿島氏は水戸の吉田氏(平氏)から常陸南部に領土を拡大した常陸平氏の三男の位置づけです。
長男は府中(石岡)の常陸大掾(だいじょう)氏、二男は行方地方の行方氏(小高・島崎・麻生・玉造氏)、三男が鹿島氏です。

しかし、源氏の佐竹氏は新羅三郎こと源義光から始まっており、この常陸平氏の兄弟とおなじ姉妹をこの息子は妻に迎えて佐竹氏が始まりました。

当時は都で義光も暮らし、役職もあり、この初代鹿島三郎(平成幹)は京都で義光の家来として仕えていました。
しかし源氏の跡目をねらっていた義光の陰謀で、鹿島三郎は源氏の跡目を継いだ源義忠を暗殺してしまい、三井寺に逃亡したが、義光からの密書により三井寺の弟・快誉らの手によって生き埋めにされ殺害されたもいわれています。
当時はこれは表に出てきていなかったようで、鹿島氏はその後、跡目を継承し、鎌倉時代からは鹿島神宮の惣大行事職を世襲して、この地の名門として大きな力を持っていました。

天正19年2月9日に「南方三十三館仕置」とよばれる佐竹氏の一斉殺害事件の時には、恐らく佐竹氏にとって鹿島氏が一番の強敵だったと思われます。

これが行われたのが旧暦の2月9日ですから、大坂から戻った佐竹義宣により常陸太田の城に招かれた理由が、「梅見を口実に、秀吉からの通達があるから挨拶に来るように・・・」などと行ったものだったのかもしれません。

当然前年末に仲間の大掾氏が攻められて滅亡してしまったことがありますから、その誘いに乗れば何が起こるかわからないといった気持を持っていたことは確かだと思います。

誘いを断れば逆に攻めてくる。いけばもしかしたら領土を安堵される。・・・との思いもあったと思います。
嘘の情報を与えたとも考えられますが、残された資料がなくどうもこれは推察するのみのようです。

さて、この鹿島氏の最後の地というのが、水郡線の山方宿近くに2箇所残されていました。

一つは、山方宿駅からも比較的近い「常安寺」に残された大きな五輪塔です。これは常陸大宮市の文化財に指定されています。

この山方宿は現在は日本一大きな釜を使った芋煮イベントが行われるので、多少名前が知られるようになったのですが、このコロナでイベントも中止を余儀なくされています。
ただ、近くに日帰りの温泉健康センターとして「三太の湯」と「金砂の湯」の2箇所があり、共に泉質もよく地元以外からの観光客などからも人気の施設となっています。

そして、終焉の跡地としてもう一箇所がこの日帰り温泉施設「三太の湯」のすぐ近くの川近くの壁面に残されている仏堂です。

山方宿

三十三館仕置事件(天正19年2月9日)のときは、この山方(やまがた)に城を構えていたのは、佐竹派の重鎮・山方能登守である。
伝承によれば、鹿島氏親子はこの山方氏に預けられ、城(御城:みじょう)に通じる嘆願橋(領民が城主に嘆願をすることが許された橋)のところで鹿島氏は処刑され、近くの寺に供養の五輪塔が建てられたとされている。

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現在「常安寺」という町から少し上った高台の寺の入口階段脇にこの五輪塔が置かれ、この塔は常陸大宮市の文化財に指定されている。
この五輪塔は以前は「嘆願橋」の近くにあったものを道路拡張工事の為にこの寺の入口に移されたものだという。

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かなり大きな五輪塔で、少し変った形をしていて六輪にも見える。

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塔の後ろ側に置かれた盆供養の卒塔婆には「鹿島清房公」と書かれている。
ここで殺されたとする鹿島家当主は「鹿島清秀」であり、子供の名前はわかっていない。
この五輪塔がかなり立派であり、多くの文献ではこの「清房」は「清秀」の間違いだとされている。

しかし、常陽藝文の記載は、この清房はこの地に連れてこられた清秀の子供の名前ではないかという。

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この五輪塔から階段を上って上に常安寺という寺があるが、上った先に橋があり、下を水郡線が通っていた。
寺の説明によれば、
この寺は1470年に常陸大守佐竹義昭公が開基とされ、山方氏の菩提寺として創建された。1519年に東政義公がここに「白馬寺」を建立したが、1592年に東家の所領替えのため、白馬寺は城里町石塚に移された。
その後、佐竹義重公が、父義昭公の菩提を弔うために今の常安寺を建立したという。

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藝文の記事に寄れば、父の清秀はこの城を家臣とともに逃れ、久慈川を渡って諸沢川に沿って山へ逃げ、上流の山あいで追っ手につかまり殺されたのではないかという。
そしてその川に面した壁面に仏堂が建てられたという。これも言い伝えのようだが、現在温泉施設の「三太の湯」の少し手前の橋の横の壁面に2体の仏像が祀られている。

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2体の仏像の下には4個の湯のみが置かれていた。
また、藝文の写真には仏像の上には板で組んだ屋根がつけられていたが、今年私が訪れた時にはなかった。

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私もこの三太の湯は好きな場所で、もう5回以上訪れた事があったが、車で横を走っていたのだが、いままでこの仏像には気がつかなかった。
また以前近くの鏡泉院という寺があって、一度訪れた事がある。
そのときの記事を参考までにリンクしておこう。(写真が縦横表示がおかしくなっているが、直すのも面倒なのでそのままです)
 十二所渕 ⇒ こちら


鹿島氏の城では、城主父子を殺されたことが伝わると、清秀の妻が中心となって篭城して佐竹氏に徹底抗戦となったという。
しかし、鹿島城は佐竹氏家臣の町田備前守が中心となり、大砲によって城壁を破壊して攻め込まれて妻は自刃下と伝わっている。

当時の鹿島城は現在の国道50号線脇の高台にあり、城山公園となって市民のいこいの場となっている。
敷地もかなり広く見晴らしもよい。

以前の記事
 ・鹿島城山公園(1) ⇒ こちら
 ・鹿島城山公園(2) ⇒ こちら
 ・鹿島城山公園(3) ⇒ こちら

今回鹿島氏の菩提寺が芭蕉の禅の師匠であった仏頂禅師のいた根本寺であると知って、前に行った事があるがまた訪ねてみた。この寺はかなり古い寺で、この城山公園の南麓にある。

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やはり鹿島紀行に芭蕉が記事や俳句を残しているので、この寺も芭蕉の月見の寺として知られている。

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境内には芭蕉の句碑「寺に寝てまこと顔なる月見かな」がある。
ただし、芭蕉が月見に訪れた時、仏頂禅師はすでにこの寺を弟子に譲って、北浦近くの草庵(現在の大儀寺?)にいたようだ。
芭蕉を慕う歌人たちがこちらの大儀寺へも沢山訪れている。

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鹿島家の墓所は、寺の山門から入って左側の一角にあった。
真ん中に「鹿島家之墓」とあり、周りに古い五輪塔のような塔がたくさん置かれていた。

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そして、そこに「鹿島前惣大行事」と刻まれた石板が置かれていました。

この鹿島氏は鎌倉時代初め頃から鹿島神宮の神領の検断を行い、神宮の振興を行う役職を代々担って来ました。
これは殆んど世襲で行われており、戦国時代も家督争いなどで揉め事はありましたが、この役職は守られてきたようです。

佐竹氏により鹿島氏は滅ぼされましたが、遺族の一部が下総の親類を頼って逃げており、江戸時代にお家再興を家康に願い出て、この鹿島神宮の守りを行う事として再興が許されています。


常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/09/02 16:32
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