常陸国の源平合戦(22) 烟田氏、中居氏終焉の地

さて、戦国時代を終結させた、佐竹氏による常陸国統一は水戸以南を領していた常陸平氏からこの地に根を下ろしてきた南方三十三館といわれた領主(城主)たちの一斉仕置といわれる謀殺でした。
言ってみればだまし討ちのように城に呼び出して殺害したといわれています。
しかし、和光院過去帳に記載されたのは九氏、十六人です。
そのうち、常陸太田の北側には島崎、鹿島、玉造、烟田、中居の五氏の最後を示す痕跡が残されています。
前回まで島崎、鹿島、玉造氏の痕跡を伝えて来ましたが、今回は残りの烟田氏と中居氏の終焉の地を訪ねてみましたので紹介します。
この2氏の終焉地は常陸太田城(舞鶴城)からそれほど離れてはいません。
ともに里川沿いの旧棚倉街道(川と山との間の道で、山の裾を巻くように続いていたと思われる)を北に3~5kmほどいったところです。

烟田氏は常陸太田市常福寺町、中居氏はその手前の里野宮町にありました。
それでは少し遠い常福寺町にある烟田(かまた)氏の跡地から見ていきましょう。

この常福寺町にある森家にその当時の様子が伝えられているそうです。
常陽藝文の記事によると、この森家は明治以前は「南窓院」という修験者(山伏)の家で、当時の話として、
天正十九年二月九日に烟田氏兄弟と家来1名の3人が、常陸太田の城へ向かう途中に、謀殺を察知してこの修験者の家に逃げ込み匿われた。しかし探索の厳しさを知り、この地で三人とも自害したと言う。
そして近くに三人一緒に埋葬し、三本の杉の木を植えたとされています。

(南窓院跡(森家))
その埋葬された場所は、この場所から西側に行った旧棚倉街道に近い場所でその後「三本杉」という小字名があり、杉の木は既に現存していないが埋葬された塚とその上に小さな祠が残されています。
近くの佐都公民館の空き地に車を停めて、近くを散策してみました。
附近をうろうろしましたが、佐都公民館から比較的近い場所にありました。

烟田氏兄弟と家来1名を埋葬したという塚と祠
写真の後ろの家の手前を旧棚倉街道が走っています。
道幅は車1台がどうにか通れるくらい。

旧棚倉街道沿いの山側には、神社や墓、石仏など古い雰囲気が残されています。
続いて、中居氏の終焉地はここから南に2kmほど里川を下った所にあります。
場所は星野宮町の南部の里川に沿った民家の庭です。

そこには川沿いの狭い道や、田んぼのあぜ道のような比較的狭い道しか通じていません。
藝文には常陸太田市史の通史編に次のように記載されていると紹介がある。
「中居秀幹とその家臣沼里助左衛門は、星野宮村に逃れたところ同地の増子助左衛門にうちとられているという」
ただ、このご子息の話では、中居秀幹はこの地に逃れてきて、逃げ切れないと覚悟し、この近くの沼の岸で自決したそうで、増子助左衛門が遺体を埋め、供養塔を建てたという。
何処までが真実かはわからないが、この地に逃れてきた死んだということは間違いなさそうだ。
この民家の隅に供養の石祠は、藝文などには写真が掲載されているが、民家の庭先を歩き回る事もためらわれたので、聞くこともせずそっとしておく事にした。

(写真の奥が里川の堤防)
中居氏の終焉の地はこの里川の直ぐ近くであった。
川が迫っており、この先を逃げ切れないと思ったのだろう。
近くに里川、佐都などの地名の基になったともいえる古社「薩都神社」がある。
この近くには水戸徳川家の墓所「瑞竜山墓所」もあります。
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