薩都神社
佐竹氏が戦国時代末の正十九年(1591)に行った「南方三十三館仕置」事件を調べて、常陸太田から北方面を散策していて、久慈郡の古い神社「薩都神社」にたどり着きました。
この里川沿いの道(旧棚倉街道)を通る事も少なかったので、名前は知っていましたが今までお訪れた事がなかったのです。
この「薩都神社」は「さとじんじゃ」または「さつじんじゃ」と読むようです。
神社の案内板にはこの二つの読みがふられていました。
近くの里川、佐都、里美などの地名の基になったとも考えられています。
この近くには水戸徳川家の墓所「瑞龍山墓所」もあります。

県道から東に少し入ったところから脇に入る道があります。
しかし、道には案内看板がありません。
地図を頼りに少し進むと、神社の社が見えて来ました。
でも、私が想像していた神社よりは少し規模が小さく感じます。
「式内郷社」と頭につけられています。
延喜式の式内社(小社)で、久慈郡二宮となっています。
久慈郡には常陸国二宮である「静神社」があり、その他小社が6箇所あります。
入って右手に社務所のような建物がありますが、誰もいないようでした。

神社拝殿。形のよい拝殿です。

(本殿です)

説明板には神社名の「薩都」の読みを「さと」「さつ」と2つ左右に書かれていました。
常陸国風土記には
「此より、北に、 薩都里 あり。 古(いにしへ )に 国 栖(くず )有りき。名をば 土 雲(つちくも) と 曰 ふ。 爰(ここ )に、 兎上命(うなかみのみこと) 、 兵 を 発(おこ) して 誅(つみな) い 滅(ほろぼ) しき。時に、 能 く殺して、「 福 (さち)なるかも」と言へり。 因(よ) りて佐都(さつ)と名づく。… 小水(おがは) あり。薩都河と名づく。」
とあります。
ここでは「薩都」の里を「佐都(さつ)」と名付け、小川を「薩都川」と名付けたとあります。
また佐都の意味は福=幸(さち)の意からきていると書かれています。
勿論これも当時の古老の話しですから別な意味(国栖などの原住民が使っていた言葉など)があるのかもしれません。
神社のいきさつは常陸国風土記に書かれていて、
「この里の東に、大きな山があり、かびれの高峯といひ、天つ神の社がある。昔、立速男の命(またの名を速経和気)が、天より降り来て、松沢の松の木の八俣の上に留まった。この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち病の災を起こす。里には病人が増え続け、困り果てて朝廷に報告し、片岡の大連を遣はしてもらって、神を祭った。その詞に、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでゐるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ。」と申し上げた。神は、これをお聞きになって、かびれの峯にお登りになった。その社は、石で垣を廻らし、古代の遺品が多く、様々の宝、弓、桙、釜、器の類が、皆石となって遺ってゐる。鳥が通り過ぎるときも、この場所は速く飛び去って行き、峯の上に留まることはないといひ、これは、昔も今も同じである。」(口訳・常陸国風土記より)
とあり、これを纏めると
・延暦7年(788年):(常陸太田市)松澤にある松の木の八俣の上に天津神の「立速日男命(たちはやびおのみこと)」が降り立ったという。そしてその地に社を建てたのが創祀とする。
・延暦19年(800年):しかし、この地に住む百姓などが小便をしたりするので、村人の奏上により大連を派遣したところ「穢れ多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と託宣があり賀毘礼(カビレ)之峰(日立市入四間町)に遷座した。
現在の御岩神社の裏手の山、御岩山がその遷座した山といわれ、御岩神社もパワースポットとして有名になっている。
・大同元年(806年)には山が険しく人々の参拝が困難であるから小中島(常陸太田市里野宮町)へ遷座(分霊)した。
・正平年間(1346年~1370年)に佐竹義宣が社殿を修造し、大永2年(1522年)に佐竹義舜により現在地に遷座された。
すなわち、御岩神社の奥宮(山全体が神とも)には、「かびれ神宮」と「薩都神社中宮」があります。
そのため、この神社も元を辿れば御岩神社と同じになりそうです。
この里川沿いの道(旧棚倉街道)を通る事も少なかったので、名前は知っていましたが今までお訪れた事がなかったのです。
この「薩都神社」は「さとじんじゃ」または「さつじんじゃ」と読むようです。
神社の案内板にはこの二つの読みがふられていました。
近くの里川、佐都、里美などの地名の基になったとも考えられています。
この近くには水戸徳川家の墓所「瑞龍山墓所」もあります。

県道から東に少し入ったところから脇に入る道があります。
しかし、道には案内看板がありません。
地図を頼りに少し進むと、神社の社が見えて来ました。
でも、私が想像していた神社よりは少し規模が小さく感じます。
「式内郷社」と頭につけられています。
延喜式の式内社(小社)で、久慈郡二宮となっています。
久慈郡には常陸国二宮である「静神社」があり、その他小社が6箇所あります。
入って右手に社務所のような建物がありますが、誰もいないようでした。

神社拝殿。形のよい拝殿です。

(本殿です)

説明板には神社名の「薩都」の読みを「さと」「さつ」と2つ左右に書かれていました。
常陸国風土記には
「此より、北に、 薩都里 あり。 古(いにしへ )に 国 栖(くず )有りき。名をば 土 雲(つちくも) と 曰 ふ。 爰(ここ )に、 兎上命(うなかみのみこと) 、 兵 を 発(おこ) して 誅(つみな) い 滅(ほろぼ) しき。時に、 能 く殺して、「 福 (さち)なるかも」と言へり。 因(よ) りて佐都(さつ)と名づく。… 小水(おがは) あり。薩都河と名づく。」
とあります。
ここでは「薩都」の里を「佐都(さつ)」と名付け、小川を「薩都川」と名付けたとあります。
また佐都の意味は福=幸(さち)の意からきていると書かれています。
勿論これも当時の古老の話しですから別な意味(国栖などの原住民が使っていた言葉など)があるのかもしれません。
神社のいきさつは常陸国風土記に書かれていて、
「この里の東に、大きな山があり、かびれの高峯といひ、天つ神の社がある。昔、立速男の命(またの名を速経和気)が、天より降り来て、松沢の松の木の八俣の上に留まった。この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち病の災を起こす。里には病人が増え続け、困り果てて朝廷に報告し、片岡の大連を遣はしてもらって、神を祭った。その詞に、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでゐるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ。」と申し上げた。神は、これをお聞きになって、かびれの峯にお登りになった。その社は、石で垣を廻らし、古代の遺品が多く、様々の宝、弓、桙、釜、器の類が、皆石となって遺ってゐる。鳥が通り過ぎるときも、この場所は速く飛び去って行き、峯の上に留まることはないといひ、これは、昔も今も同じである。」(口訳・常陸国風土記より)
とあり、これを纏めると
・延暦7年(788年):(常陸太田市)松澤にある松の木の八俣の上に天津神の「立速日男命(たちはやびおのみこと)」が降り立ったという。そしてその地に社を建てたのが創祀とする。
・延暦19年(800年):しかし、この地に住む百姓などが小便をしたりするので、村人の奏上により大連を派遣したところ「穢れ多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と託宣があり賀毘礼(カビレ)之峰(日立市入四間町)に遷座した。
現在の御岩神社の裏手の山、御岩山がその遷座した山といわれ、御岩神社もパワースポットとして有名になっている。
・大同元年(806年)には山が険しく人々の参拝が困難であるから小中島(常陸太田市里野宮町)へ遷座(分霊)した。
・正平年間(1346年~1370年)に佐竹義宣が社殿を修造し、大永2年(1522年)に佐竹義舜により現在地に遷座された。
すなわち、御岩神社の奥宮(山全体が神とも)には、「かびれ神宮」と「薩都神社中宮」があります。
そのため、この神社も元を辿れば御岩神社と同じになりそうです。
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