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常陸国における源平合戦(23) 常陸平氏の終焉

源平合戦(23)

戦国時代に常陸国の覇者となった佐竹氏は新羅三郎(源義光)の長男から始まる源氏の家系。
一方水戸以南に勢力を張った常陸大掾氏一族は桓武平氏の家柄。
ただ、この佐竹氏もこちらの平氏一族から妻を迎えて、その領地を常陸国北部に広げていった。

昔は未開の土地も、耕せば自分のものになるといった時代もあった。
そして盗賊なども増え、それを取り締まってくれる武士の力も農民たちにとって必要だったのだと思う

源氏・平氏といってみてもいわば親戚関係のようなものだが、400年ほど経てばその兄弟子孫は山のようにいることになる。

そして、人々が集まって邑ができ、その地を管理する領主がいて、荘園となり、いざというときになれば農民も武器を持って戦う。
秀吉が天下統一して農民から武器を取り上げる「刀狩令」を出したのが1588年。

そして、1590年に小田原攻めや東国攻めがあり、この年の12月に佐竹氏は水戸城から江戸氏を追放し、府中(現:石岡)の常陸平氏の頭領である常陸大掾氏を攻め落とした。

残るはこの大掾氏の兄弟分行方(なめがた)二郎、鹿島三郎たちが開発した常陸国南部の地。
行方は四頭とよばれる兄弟が管理していたところ。
鹿島は鹿島神宮の管理を任された鹿島氏が頭領で、そこから分れた諸氏が鉾田、太陽村、鹿島地方のいわゆる鹿行(ろっこう)地域に広がっていました。

当時で思いつく城などからそれらの諸氏の名前を下記の地図に示してみました。

33館終焉

ここで、常陸大掾氏、麻生氏、永山(長山)氏、林氏、徳宿氏などはこの33館仕置事件の時には既に滅んでいますので色を分けました。
・常陸大掾氏(常陸府中:現石岡市)・・・1590年12月 佐竹氏、園部氏などの攻撃で城は炎上し滅亡
・麻生氏(行方市麻生)・・・1584年 同族の島崎氏の攻撃で落城 滅亡
・永山氏(行方市永山)・・・1522年 同族の島崎氏の攻撃で落城 滅亡
・林氏(鹿嶋市林)・・・1589年 鹿島氏の一族だが、林弾正時国が札村で荒原五郎左衛門によって討たれ滅亡(新編常陸風土記)。ただし、別な話では、1591年の佐竹氏の呼び出しに出かける途中、家臣の荒原五郎左衛門に後ろから斬りつけ殺害されたとも。
・徳宿氏(鉾田市徳宿)・・・1486年 水戸にいた江戸氏の2000人ほどによる攻撃を受け300人の城兵は尽く殺され、滅亡。
徳宿氏は、鹿島氏の始祖・鹿島成幹の長男が北の守りにこの地に城を築いて住んだのが始まり。この徳宿氏からその南の烟田地方を分割されてそこを領したのが烟田氏です。
 <参考までに以前書いた関連ブログ記事を下記に示します。>
 前に徳宿を訪問した時の記事 ⇒ 徳宿沼尾神社(こちら
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 この江戸氏との合戦を伝える神社 ⇒ 樅山(もみやま)神社(こちら


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さて、1591年2月の南方33館仕置で佐竹氏の太田城にまねかれそこで死亡したとされるのは、九氏 十五人となっています。
ただ、和光院過去帳は十六人ですが、カミと書かれている鹿島氏の妻と思われる人数があり、鹿島氏の妻は城に残り抵抗して死んだといわれています。

佐竹氏のこの仕置事件は、それぞれの兄弟、息子たちが跡を継げないようにすることで勢力をそぐ事が目的であり、妻や降参して味方になる家臣などにはそれ程危害は加えていないようにも思われます。
当然農民などの領民も、そこを新たに支配した佐竹の家臣団には抵抗しないように神社仏閣を整え、信仰心も守り、荒れた町並みを整備して人心の掌握に努めたようです。

ただ、この天正19年(1591年)2月9日の時には、城主たちの一斉の殺害を知った、城に残された人々はどのような思いをいだいたのでしょうか。
何か分るエピソードなどがないか探して見ましょう。


<鹿島氏の場合>:鹿島清秀父子・・・山方城に連行され殺害?
 鹿島神宮に程近いところの高台に石垣を築いて広大な城がありました。鹿島氏は鎌倉時代頃から鹿島神宮の管理をする「惣大行事家」としてこの地におおきな力を有していました。

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北部の鉾田地方までは、この鹿島氏の一族が散らばっており、上に載せた地図にも、林氏、中居氏、札氏、烟田氏、などみなこの鹿島氏がその頭領的な位置づけにいました。
大野村史に伝わる所によれば、悲報を受けて場内は大混乱に陥り、城を棄てて逃げるものも続出したが、鹿島清秀の妻は気丈で夫と息子の死を聞き、残兵を集め、城の明け渡しに反対し、篭城して徹底抗戦したという。
しかし、佐竹勢は大砲を使って城壁を破壊し、妻は自刀して果てたといわれています。

<烟田氏の場合>:烟田道幹兄弟・・・常陸太田城から逃げて常陸太田市常福寺町にて自害
 烟田(かまた)氏は鹿島郡の北部を守っており、現在の鉾田市鉾田市烟田の少し高台に城がありました。
この地には「新宮小学校」がありましたが、2019年3月に廃校となり、130年の歴史を閉じました。
今も土塁が残されています。烟田氏兄弟が自害してからの細かな情報はありませんが、この地方では佐竹氏に最も近い場所にあり、高台とはいえ平城のようなもので、その時の佐竹氏の勢力には交戦する力も余りなかったように思います。
城は佐竹氏によって壊滅してしまいました。しかし、烟田氏は記録として「烟田文書(かまたもんじょ)」を残しています。
烟田氏は滅びましたが、関係する家臣は江戸時代も生き残り、これらの文書が残されたようです。

<中居氏の場合>:中居秀幹・・・常陸太田城から逃げて常陸太田市里野宮町にて自害または殺害
 北浦に近い場所で、旧太陽村にある山城です。現在は孟宗竹で覆われていますが、昔の土塁や堀を確認する事ができます。
北浦と鹿島灘の中間あたりだったようです。山の中に当時の遺構が残されているだけで、詳しいことはよくわかりません。
「太陽村史」には、城主の悲報が城に伝えられたとき、城の堀を造る作業が行われていた。知らせを聞いた里人は作業を中止して悲嘆にくれ、念仏を唱えて秀幹の徳を偲んだそうで、その場所は念仏堀と呼ばれたという。

<札氏の場合>:札幹繁・・・常陸太田に向かうもそこから逃げて身を隠して生き延びる。
 上記の中居氏の西側の北浦に近い札村の高台に城を築いていた。
33館仕置のときは、やはり常陸太田に出かけたという。しかし、異変に気付き、棚倉街道を北へ逃げ、現在の里美の北部に身を隠したという。
佐竹氏の追跡をのがれ、十五年ほど、じっとしてどなたかにかくまわれたのだろうか?
1602年に佐竹氏が出羽(秋田)に転封となった後に、地元の札村にもどったという。
しかし、その後間もなく病気で他界したと伝わっている。
 
札村にあった白鳥山普門寺(札城跡)の記事 ⇒ こちら

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(普門寺観音堂)

少し長くなりましたので、その後の行方地方の領主たちについては次回に書きます。

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/09/09 13:49
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