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常陸国における源平合戦(24) 常陸平氏の終焉 その2 ≪完≫

源平合戦(24)

前回に続いて、今回は行方地方の城主たちを少し調べてみました。

行方氏一族

行方(なめがた)地方は8世紀始めに書かれた常陸国風土記には白雉四年(653年)に、茨城郡と那珂郡からそれぞれ八里と七里(面積)、合計十五里(七百余戸)の土地を提供して、郡家を置いて行方郡としたのが始まりです。またこのときの郡衙は現在の玉造の南部あたりにあったとされています。

水戸の南部の吉田にいた桓武平氏の一族(吉田清幹)の子の平忠幹が平安時代後期にこの地方に入って行方氏を名乗りました。そして平忠幹の4人の息子が行方氏(小高氏)、島崎氏、麻生氏、玉造氏に分かれて行方四頭とよばれ、お互いに助け合い発展していきました。
しかし、南北朝から戦国時代になると次第にお互いが争うようにもなりました。

それでは行方四頭の戦国末期の様子を見て行きましょう。

<小高氏(長男)>:天正19年2月9日、小高治部少輔とその息子は佐竹氏の33館領主の誘いで常陸太田城に呼び出され、そこで殺害される。

 小高城は行方郡の中間当りで、昔はここ辺りが行方郡の中心であったようだ。いまはあまり町としては発達していない。

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 小高城跡は、今は畑や山の中にその遺構が残されているだけで、古びた説明看板が置かれているに過ぎません。また御城などと呼ばれていたといわれる地域も畑が広がるばかりです。

小高氏の菩提寺は近くの「皇徳寺」と思われます。

皇徳寺
 (皇徳寺:寺の山名が「小高山」となっているだけで小高氏に関する遺構は余りありません。)

この小高氏の滅亡の後、小高城は佐竹の家臣大山義則が城代となった。
そして、常行院という寺を自身の地元より移して、佐竹氏の菩提寺とした。

常行院
 常行院:佐竹氏の菩提寺、佐竹氏がこの地を領したのは10年足らずの短い時であった。しかし1602年に佐竹氏の出羽(秋田)転封が決まったときには、この地に佐竹氏家臣の18人が残って、この寺を守って江戸時代に続いていったという。

ただ33館の仕置後にこの地の様子を伝える遺構が道端に残されていました。道端の一角にちいさな社(観音堂)が一つ置かれていました。

福岡観音
 
 福岡観音と呼ばれています。そこに書かれた説明では、この小高城が落城した時に、城主の妻と腰元6名がこの地で自害して果てたそうで、この小高の地も元からいた住民と佐竹氏などの家臣や住民などと江戸時代になっても細かな争いが続いたそうです。
そこで住民たちが相談して、元禄年間(1688~1704)にこの地で自決した奥方たちの霊を慰め、お互いの争いをしないように観音様を祀ったのだそうです。
それ以来安産や守護の神として祀ら、民衆の融和がはかれたと言います。
ただ当時の様子を伝える「福岡観音」

この小高地方をめぐったときの記事は下記にあります。
  小高散歩 ⇒ こちら

<島崎氏(次男)>:島崎安定と息子徳一丸(和光院過去帳は一徳丸)・・・水郡線の大子の直ぐ手前の上小川の頃藤場の小川氏に預けられ、この地で殺害される。

 島崎氏だけは水戸の六地蔵寺にその時の様子が残されている。
これは上小川の頃藤城の城主「小川大和守」と家臣たちは六地蔵寺にこの島崎氏の永代供養をし、家臣清水信濃守が現地に祠をたて、代々祀って供養を続けてきたためといいます。

地元の潮来市郊外にある御札神社が立つ山一帯が島崎氏の城跡だとされています。
最近ここに「島崎城跡を守る会」という会が設立され、この城跡を整理し、駐車場を設け、案内板を整備しました。
この会の中心は島崎氏家臣の子孫の方だといいます。
戦国末期、領地を西に広げ、同じ行方氏の麻生氏を攻撃して滅ぼしています。
東には鹿島氏がおり、行方四頭ではかなり大きな勢いのある城主であったようです。

島崎城跡

島崎城跡:かなりの規模の城であったことがよくわかる。駐車場も案内板も整備されている。
訪れた時の記事は ⇒ こちら

<麻生氏(三男)> 
行方氏の3男の家系で、麻生の街中にある羽黒山に城を築いていた。

麻生城跡

現在、城跡一帯は羽黒山公園となっていて、桜などがきれいに植えられている。
この麻生氏は戦国末期の天正12年(1584)に、麻生之幹(これもと)が同族の島崎安定に攻められ、滅亡した。
江戸時代にはこの麻生は麻生藩となり、周りの地域がほとんど水戸藩であった中で独立した藩として続いた。

以前に訪れたときの記事:麻生城跡 記事は ⇒ こちら


<永山(長山)氏>:1522年東側の島崎氏に攻められ滅亡

 永山(長山)氏は1200年頃、行方幹平の次子行方知幹がこの地を領し長山氏を名乗り長山城を築いたといわれている。

 現在「香澄の郷」公園のある高台の東側に城があった。
潮来郊外にいた島崎氏(島崎利幹)は大永2年(1522年)、牛堀地区を流れる川を夜に渡り、この永山(長山)城を襲い、城主長山幹綱は自刃して、この永山(長山)氏は滅亡したが、幹綱の子政幹は城を脱して常陸太田の佐竹義篤を頼って落ち、その後佐竹氏の家来となり活躍している。

城が陥落した時に、島崎氏の軍勢が夜に渡った川は、「夜越川(よろこしがわ)と呼ばれるようになったと伝えられている。

夜越川

夜越川の記事 ⇒ こちら

<島並氏>:島並氏も恐らく行方氏の一族だと思われるが、具体的に記載されているものがないという。

 場所は麻生城の少し北西側です。島並城は、現在「是心院」という寺のある領域全体にあったようです。
この島並氏も佐竹氏の33館仕置時に攻められて滅亡したという。ただ余り資料がなく実体は不明。
その後、島並氏の家臣だった藤崎権右衛門により、天正19年7月8日に島並氏の菩提を弔うためにこの寺「登城山是心院」を建立したという。

以前にこの島並地区を散策した時の記事を参考にリンクしておきます。

・行方市島並の熊野神社(1) ⇒ こちら
・行方市島並の熊野神社(2) ⇒ こちら

島並熊野神社
(島並の熊野神社)

麻生氏とは行き来があったようなので、麻生氏関連の氏族かもしれません。

<手賀氏>:手賀高幹と弟は佐竹氏の招きに応じて常陸太田の城に向かった。その後の具体的な記録がないが、常陸太田城で二人とも殺されたのだと思う。

 手賀氏は玉造城主・玉造幹政の次男政家が手賀郷に住して手賀氏を名乗ったとされる。
城跡は玉造から麻生方面に行った西蓮寺の少し手前の山の中にあった。
菩提寺は養徳寺で、この寺に手賀氏のは墓石がある。

天正19年の2月に兄弟で常陸太田に出かけ殺戮されたと考えられている。

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(養徳寺:城はこの奥の東側の山の中にあったという)

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寺には手賀氏の墓標が残されている。

<玉造氏(四男)>:玉造重幹父子は家臣2名と4人で常陸太田から日立市大久保の大窪氏に預けられここで自害した。墓は大久保にある正伝寺の大窪氏の墓所に4つの供養塔がある。
玉造氏についてはこの源平合戦(21)に詳しく載せているのでここでは省略します。

<相賀氏>:和光院過去帳ではアウカ殿と書かれており、この相賀(おうが)氏のことだと思われる。やはり常陸太田に招かれて殺害されているので、太田の場内で殺されたのではないかと思われるが詳細は不明。

場所は常陸国風土記に、ヤマトタケルが弟橘姫に再会したとして名前の出てくる「相鹿(あうか)の里」であり、ナウマンゾウの化石が発掘された場所でもある。

相賀(おうが)城は、平安時代に逢賀三郎親幹により最初に築かれ、それを戦国時代になり、手賀左近尉義元(相賀入道)によって再建され、相賀城と呼ばれるようになった。
玉造氏から分れた手賀氏のまた分家と行ったところだろうか。

相賀城跡
(相賀城跡は山の少し開けた畑の広がる場所に説明板が置かれていた)

以前に散策した相鹿の里の記事(参考まで)
・相鹿の里(1) ⇒ こちら
・相鹿の里(2) ⇒ こちら
・相鹿の里(3) ⇒ こちら

<武田氏>:この武田氏は北浦武田氏の武田信房とおもわれ、北浦にかかる鹿行大橋の行方側にある木崎城の城主でした。

甲斐国の武田信玄を輩出した武田氏は、元をたどれば佐竹氏の祖とも言われる新羅三郎義光の次男が勝田の近くの武田郷に住して武田冠者と呼ばれていたが、領地争いに敗れて甲斐国(山梨)へ移動し甲斐武田氏となります。
そして、甲斐武田氏の10代(甲斐源氏13代)当主(武田氏の初代は義光の孫である源清光の次男とした)である武田信満が親戚関係にもあった上杉禅秀に味方して敗れ、木賊山(後の天目山)で自害するという事件が発生した。
この北浦の武田氏はこの武田信満の弟である武田信久が、兄が自害した時に千葉兼胤を頼って千葉に逃れてきて、その翌年の 応永24年(1417)にこの北浦の地に逃れ、ここに城(神明城)を築いて住み着いたと言われています。

この北浦武田氏も常陸平氏の一族ではありませんが、佐竹氏により33館仕置にて殺害されました。

北浦武田氏
武田
木崎城跡の一部には現在「香取神社」が建てられています。

 ・木崎城跡と北浦武田郷 ⇒ こちら

さて、この武田氏は戦国時代初めころに、鉾田市二重作付近の山に武田城と呼ばれる城を築いています。ここには、武田次郎左衛門尉がいたが、佐竹義宣に服属し、但馬守と称したという。

また、鉾田市青柳地区にも堀之内館という館や蕨砦があり、武田大膳勝信が青柳氏と呼ばれ住していたという。
勝信はこの仕置事件では、ここから逃げて各地を転々として佐竹氏が出羽へ移った後、戻ってきて帰農したという。

<芹沢氏>: 芹沢氏も新撰組の芹沢鴨などと関係しており、江戸時代以降も存続しましたが、元を辿ればつくば市北条の多気氏(常陸大掾)が小田氏の換言により、源頼朝により鎌倉に呼び出され、所領没収となり滅亡しますが、この遺児の家系が駿河よりこの玉造近くの芹沢地区に入り、常陸府中(石岡)の常陸大掾(だいじょう)氏を支援していたといわれています。ただ、一時常陸国内でも転々としており、佐竹氏との関係も良かったようです。

この33館仕置事件でも、芹沢氏にも招待があったようです。しかし、城主は仮病を理由に出かけずに館に残り難を逃れたようです。
この後、この芹沢の館には近隣の常陸平氏の諸氏や血気盛んな人々も多く集まって、最後まで抵抗しようとする者、降伏して佐竹氏に従おうとする者などがいて、意見はまとまらず・・・・。

幸いこの芹沢氏と佐竹氏の関係は良かったらしく、佐竹氏に従うこととなり、芹沢氏も存続できたようです。

法眼寺

・法眼寺(芹沢家の菩提寺)(1) ⇒ こちら
・法眼寺(芹沢家の菩提寺)(2) ⇒ こちら


この佐竹氏による「33館の仕置」後には、佐竹氏に抵抗した勢力も、この常陸平氏一族ばかりではなく、つくばの小田氏(八田氏)の一族などもまままだ多くいたようです。
これらの館主も連携して反旗を掲げて抵抗したようですが、勢いのある佐竹軍の前に皆滅ぼされていったといわれています。
33という数値は単なる多くを示すに過ぎないといわれていますが、調べていくとかなりの数に上ることがわかりました。
この数値もあながち誇張したものでもないのだと感じます。

この「常陸国における源平合戦」も今回で一旦終わりにしたいと思います。
調べながらの記事で、長く引きずってしまい、読み苦しい点が多々あったことをお詫び申しげます。

下記のリンクから25回分(10回分づつ)を順に読むことができます。

常陸国の源平合戦(はじめから) ⇒ こちら

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/09/11 07:34
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