甲子夜話の面白き世界(第2話)天狗にまつわる話(2)

<甲子夜話の面白き世界(第2話)天狗にまつわる話(その2)>
《4》 天狗が吉原へ見物に出かけた話し
「笑い話を一つ」
普段仙境にいるといわれる天狗だが、あるとき人界に現れ、吉原町というところを一度見ておきたいと吉原に出かけた。
だが、人に顔を見られるのを恐れ、手ぬぐいで頬かむりをしたがのだが、長い鼻はでてしまう。
まあこれは仕方がないと、両手で鼻をかくして、吉原の店前にある格子から中を覗いて見ようとした。
しかし、鼻が格子につかえて、よく見る事が出来ない。
ではと、格子の間から鼻柱を入れた。
すると中からこれを少妓が見つけて叫んだ。
「あれあれ、何者かが格子からおしっこをするよ」。
(続 巻之十七 〈一〉 ← クリック 元記事)
《5》 天狗になった住持の話し
永禄の頃の話だというが、川越の喜多院の住持(住職)が天狗になって、妙義山に聳える岩の上に飛び去ったという。
そのため、寺(院)にある住職代々の墓の中にこの住持の墓だけがないという。
またこの住持が使っていた小僧も天狗になって同じように飛び立ったが、庭前に墜落して死んでしまった。
その死んだ場所には今小祠が建っている。
この小僧は飛び立つ直前まで味噌をすっていたが、この擂粉木(すりこぎ)をなげ捨てて飛んだのだという。
そのためか、今ではこの院内で味噌をするのを見れば、必ず擂粉木を取りあげるという。
まあ、味噌をすらなくとも、槌(つち)で打って汁にするのだそうだ。
このようなことが伝わっているのも、何かがあってのことであろう。
(巻之52 〔14〕 ← クリック 元記事)
《6》 少年時代に天狗にさらわれた男の話し
私の屋敷にいる下男で、今53歳になる源左衛門という男がいる。
この男は昔天狗に連れ去られたという。
その話によると
7歳の少年の祝いの時に、馬の模様が染め抜かれた着物を着て八幡宮に詣でていた時の事。
八幡宮の社のあたりから急に山伏が現れて、少年を誘い、そして連れ去ったのだと。
連れ去られてから山伏と共にいたが、8年が経った頃、山伏は、おまえの家族で仏事があったので、お前の身は不浄になった。
そのため、このままここに置いておくわけにはいかないので人間界に返すと云って、相州(相模国)の大山に置いていかれた。
それを里人が見つけてくれ、腰には札が取り付けられていて、そこには国郡の名まで書いてあったので、宿から宿を通して家に戻ってくることができた。
その時に、持って帰った着物は、7歳の時に着ていた馬染めの着物であり、それは少しも損なっていなかった。
その後3年間はそのまま家にいたが、18歳になった時に、例の山伏が「迎えにきたよ」と云って現れた。
そして、「一緒に来なさい。しっかり目をつぶっていなさい」といって、山伏はその青年を背負うと、帯のようなものを肩にかけ、あっという間に飛び立ち、風の鳴る音が聞こえたという。
そして、着いたところは越中の立山の大きな祠のある場所だった。
そこから加賀の白山に通じている途中に畳を二十畳ほど敷いた場所があった。
ここには僧や山伏が合わせて十一人が座っていた。
源左衛門を連れてきた例の山伏の名は「権現」と云った。
権現は源左衛門を「長福房」と呼んで、十一人の天狗の上座に「権現」が座し、「長福房」をすぐその傍に座らせた。
この時、初めて乾菓子を食べた。
また十一人の天狗は各々口の中で呪文を唱えるようにしていたが、いきなり笙(しょう)と篳篥(しきりき)の音(ね)が聞こえてきて、天狗たちは皆たちかわり踊り、唄った。
「権現」は白髪で髭(ひげ)は長く膝まで及んでいた。
表情は温和で、慈愛な感じで、あまり天狗らしくなく、ゆらゆらした感じであった。
話しによると天狗たちは、諸国を廻るうちに、奥の国(魔界)の昔の大将の陰者になる者が多いという。
また源左衛門は、山伏に伴なわれて鞍馬の貴船に行った。
そこの千畳敷には僧達が大勢座っていて、貴船に参詣する人々の様々な祈り、願い事が心の中によく伝わり聞こえてくるという。
聞こえてくる願い事について、天狗は皆で話しており、この願いは妥当だからかなえてやろうとか、また願い事を聞いて愚かな者よと大笑いする天狗もいる。
または中には極めてかなえられない願いもある。
また叶えられないものに見えても、何かの呪文を誦することもある。
周りの山に連れていかれたが、そこには様々な天狗がいて、剣術をやり、兵法を学んでいた。そして源左衛門もそれを伝授された。
申楽、宴歌、酒席にも連れて行かれた。
天狗の「権現」師匠は、毎朝天下安全を祈り、勤行するようにと教えられた。
またある時、昔の源平合戦のときの「一の谷の合戦」の状態を見せようではないかと云う事があった。
山頭に色鮮やかな旗を翻しながら、人馬が群れて走り、ときの声が上がり、その場の様子はまさにその場でおこっているように見えた。しかしこれは妖術である。
また、世の中には木葉天狗と云う者もいる。
あの世この世の境ではハクロウと呼ぶ。この者は狼として生きた経歴がある。白い毛が生えている老狼なので、白狼である。
また十九歳の時に人間界へ還されたが、その時に天狗の類を去る証明書と兵法の巻物二つを与えられ、脇差を帯させ、袈裟を掛けて帰したという。
始め魔界に入った時に着ていた馬の絵柄の着物、兵法の巻物とこの証明書の三品は、上総(かずさ)の氏神に奉納し、授けられた脇差と袈裟は今度お見せします、と云ったが、わしはまだ見ていない。
聴き及んだ話では、ある日、奉納した巻物をその神社の社司が秘かに見ようとしたが、眼がくらみ見ることはできなかったという。そのため、そのまま納められているのこと。巻物はすべて梵字で書かれているという。
また天狗も物を買うことがあるが、この銭は、白狼どもが薪を採って売ったり、または人に肩を貸すなどしてその駄賃を集めたもので賄っていると。
また天狗は酒を嗜むと云う。
また南部におそれ山という高山がある。この奥十八里に天狗の祠があり、これを「狗賓(ぐひん)堂」と称する。
ここに毎月下旬に信州から善光寺の如来を招き、このご利益を願い、白狼の輩の三熱の苦を免れるように祈る。
その時は、天狗権現師匠とその仲間達で皆を出迎える。
善光寺の如来が来向するときはまるで白昼のともし火の様だという。
また源左衛門がこの魔界にいた時、菓子を一度食べてからというもの、物を食べたことはない。
だから両便(大便、小便)の通じがなかったという。
以上の説は、かの下男が云うことであるが、そこに虚偽疑がないとは思わない。
しかし話す内容は妄想だけとも思われない。
何もかにも天と地の間にこの様な妖魔の一界があるのだなあと思ったことだ。
(注:平田篤胤が天狗にさらわれて江戸の町に戻ったという少年の話を聞き取った「仙境異聞」を書いたのは、1822年のこと。この松浦静山公がこの甲子夜話を書いたのは1821年から30年間である。話の内容はかなり似通ったものがあるが、時代も近い。似たような話もまだ多くあったのかもしれない。)
(巻之七十三 六 ← クリック 元記事)
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