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甲子夜話の面白き世界(第6話)河童にまつわる話

甲子夜話の世界第6話
(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 天狗が終って、今回は「河童(かっぱ)」です。

《1》 河童の図、福太郎、川太郎の話し

 先年、領国の平戸にあやしい施版が出回った。
後に思い出してこれを尋ねると、ある処をつまびらかにしたが、この頃(1825年頃?)、ふと籠の裏からその古い絵の書かれている紙を手にした(以下の図)。

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 前図に小記を添えた。最も取るに足りないその旨を述べたい。

・『訓蒙図』に云う。川太郎。水中にいる時は小児の様に背丈金尺8寸~1尺1寸。
・『本草網目』に云う。水虎、河伯ともいう。
・出雲国では川子大明神という。
・豊後国では川太郎。
・山国で山太郎(山の下、城の字を脱するか)。
・筑後国では水天狗。
・九州では川童子。

最初の守りお札は、恩返しに福を授けるので福太郎と云う。

その由来は、相州金沢村の漁師重右衛門の家に伝わる箱に、水難、疱瘡の守りと記してあって、そのまま家内に祭り置いた。
享和元年(1801年)5月15日夜、重右衛門の姉の夢の中に童子が来た。
「我はこの家に久しく祭られているけれども、未だよく知る者はいない。願わくは、我が為に一社を建てて頂たい。然らば、水難、疱瘡、麻疹の守り神として護ろう」と云って、夢から覚めた。
  姉はいぶかしく思い、親類に知らせて集まり、共に箱を開いた。
そこには猿の様な、四肢には水かきがあって、頭には凹がある。

 因みに前書の説にきわめ、夢の告知で福太郎と称した。
後また某侯の求めで、その邸に出したが、某侯にも同じ物があって、同じ夢の告知から水神と勧請した。
江戸、その領国でもしばしば霊験ありという。

 また云う。
今この祠の建立に因んで水神と唱える。
信心の輩はこの施版を受けて銭12孔を寄付を請うた。
    南八丁堀二丁目自身番向    丸屋久七
 またこの後に図をつける。
これは他人が添えたものである。これもまたここに載せる。

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 総じて河童に霊があることは、領邑だは往々云っている。
わしも先年領邑の堺村で、この河童の手を見た。
猿の掌に似て、指の節は4つあったと思う。
またこの物は亀の類で、猿を合わせた物である。

 立って歩く事があるという。
また鴨捕りと生業の者に聞くと、水沢の辺を窺いみていると、水辺を歩いて魚貝を取り食うと。
また時として水汀を見ると足跡がある。小児の様だと。

 また漁師が云うには、稀に網に入ることがある。
漁師はこの物が網に入ると漁にならず、とても嫌う。
入れば即放る。
網に入って、挙げると、その形一円石に似ている。
これは蔵六の体ならばのこと。
因みに水に投ずれば、忽ち四足頭尾を出し、水中を去ると。

然れば全く亀類である。

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《2》 対馬の河太郎(水虎、河童)の話し

対馬には河太郎がいる。

波よけの石塘(いしども、石で造った堤防)に集まり群れている。
亀が石の上に出て甲羅をさらす様にしている。

丈はニ尺余り人に似ている。
老いたもの若いものがいて白髪のものもいる。
髪が生えているものもまた逆に天を衝(つ)くもの種々あるという。

人を見ればみな海に入る。
一般的に人につくのは狐が人につくのと同じである。

国や人に厄をなすと云う。
またわしが若い頃、東部で捕らえたと云う図を見た。

 これは享保(1716~1736)中、本所那須村の芦藪の中の沼田間で子どもを育てているのを村夫が見つけて追い出した。
その捕らえた子どもの図である。

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太田澄元と云う本草家の父岩永玄浩が鑑定した所「水虎」であると云う。

また本所御材木倉取建の時に、芦藪を刈払いをしていて狩り出して獲たと云う。
〈『余録』〉。

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《3》 河童に足を取られる話し

 わしが浅草川畔を往来したとき、心に思うまま、「この川は往昔は今の様に深水ではなかった」と云った。

側の者が「『落穂集』にあったと思います。
ある老人の話で、浅草川も昔は川中に一筋の流れがあって、左右の辺りは沙汀で小児など遊行していました。
今では一面に水をたたえていて昔とはさま変わりをしてしまいました」といった。

 わしはいまだその書は見ていないが、その様なこともあるのだな。

 今年10月23日の朝五時(今の午前8時)に、汐引きするとき、御厩川岸を通り、
船長に問うた。「この川の深さは幾尺あるだろうか」。

答えるには、「退汐(ヒキシオ)のときは、川中で3間ばかりです。水棹は3間になりますが、ようやく水底にとどきます。盈潮(みちしお)だと棹はとどきません。ですが両辺は至って水が浅うございます」。

 このとき従行人が云うには、「この川で水泳ぎをする者が言うには、両辺が浅ければ足も水底に立つのです。
しかし油断して泳ぎつづけると、川中に至って急に岸の様に深いところで、そこにおち入って溺死することもあるそうです。
これを世間では、河童に取られてしまうというのですね」。

 これは前の話と合う。
ならば往古のこの都が開けざる前は荒れた田圃だったので、両辺が沙汀なのは自然なことである。
さて今は繁茂に従って、両畔に石垣を作って、壁立して川幅がやや狭くなれば、川上の流れ下り、海の潮は古今変わらないまま、水の満ち方は古より多くなっただろうに。その筈である。

 古は左右に物がなければ、流れも増さず、水退きもはやいので、今の郊外遠堺の水の流れもみなこの様であっただろうに。

正しくはわしの少年の頃までは、河畔石垣がない所が多かった。
また松平冠山の祖父の画いたこの川両辺の景色には、芦が生えた所が多い。

これはわしの少年時より3,40年前になるだろう。
これに想いを馳せよう。

続篇  巻之20  〔12〕 ← クリック 元記事


甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/09/30 07:09
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