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糸賀館長(土浦博物館)の記念講演を聞いて

 昨日、石岡ライオンズクラブ結成5周年記念基調講演会が石岡プラザホテル3Fにおいて行われた。
私はライオンズクラブに所属してはいないが、友人の誘いで参加させていただいた。

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講演者は現在土浦市立博物館館長の糸賀茂男先生(常磐大名誉教授)。
講演の題目は「ひたちのみやこ”常府”の風景」

私は、この題目と、糸賀先生のお話しの館長講話などを拝聴し、また土浦の友人からもよく話しがあり、下記のような印象をもっていた。
1)平将門の研究者として長年研究をされてきた。
2)中世の関東における武士社会、荘園制度などがご研究の主体
3)真壁城跡発掘と国指定遺跡登録に尽力されてきた
4)石岡には源頼朝が平氏を討つ前にやってきたが、このことに石岡の人はあまり注目されていないという思いがある。

以上のような前知識はもっていたので、今回どんなお話をされるかに興味を持った。

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講演会は午後2時から3時半の1時間半。この間休憩も取らずによどみなく話しを続けられた。
自分と石岡の関係などから話し始められ、用意されたのはA3用紙3枚に細かな字で、年表やら古文書のコピーなどがびっしり書き込まれた紙の資料だ。

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このまますべて此処に載せてしまうのは、ちょっと失礼になるので、雰囲気が分る程度に写真をUPしました。

先生は最初に示した年表から「7つのポイント」を番号とアンダーラインを引き、それに関する資料をもって今回の話の説明をされた。

7つとは
1、826年 常陸国、親王任国となる
2、939年 将門、常陸国府を襲撃
3、1147年 平頼盛、常陸介に在任する。以降平氏一門の常陸介任官が続く。
4、1180年 源頼朝、常陸国府にはいり、
5、1279年 常陸国大田文(佐田惣勘文)が作られる。
6、1317年 佐介時綱、常陸国守護職に在任する。
7、1338年 小田氏ら府中石岡城を攻める。

これはなかなか鋭い。あまり地元でも言われてこなかったことでもある。
1)親王任国になってからは国のトップの「守」は天皇一族ないなって、実質的なトップが「介(すけ)」となった。
2)将門の乱は、糸賀先生の研究分野であり、その目的がどこにあったのか・・・なかなか面白い。
  当時の大和朝廷は中国のマネばかり、そこに将門は独自の制度を樹立したかった??
3)1147年からの常陸介は中央の平清盛一族の平氏が勝手に任命できたもので、常陸国も平氏で固められた?
4)1180年の頼朝が4日間常陸府中(石岡)に滞在した。佐竹氏を制圧して小栗に立ち寄り、そこから鎌倉、京へいった。
 吾妻鏡の大矢橋事件の引用あり。
5)1279年 常陸国大田文(おおたぶみ)は、いわゆる税所(さいしょ)文(茨城県指定文化財)で、当時の課税台帳が残されている。これは当プラザホテルとも関係がある。
6)1317年 時綱、常陸国守護職・・・これは頼朝の妻北条政子と時綱の関係、小田氏などとの関係・・・
7)1338年 小田氏ら府中石岡城を攻める。とあるが、南北朝のとき税所文書の中に
「高師冬(こうのもろふゆ)奉書」に「常州府中石岡城警固事、・・・」との記述がある。

「石岡」という地名はどこからきたのか。今まで言われてきた事に証拠を示された。
この石岡城は今までは茨城廃寺近くの「外城(とじょう)」のことともいわれてき。
現在の国府跡に「府中城」を築かれたのは南北朝時代の正平年間(1346年~1370年)に、大掾詮国が築いたとされていますが、すでにここには「府中石岡城」と呼ばれるなにか別館のようなものが築かれていたのではないかなどとも想像されます。

そうすると地名「石岡」は
  国府(こくふ) ⇒ 国阜 ⇒ 石阜 ⇒ 石岡
というのもかなり信憑性がありそうですね。

少し何か見えてきたものがあります。
面白くなって来ました。

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/17 11:22
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