fc2ブログ

島崎氏終焉の地後編

 以前(2ヶ月ほど前)、本ブログで「常陸国における源平合戦」として記事を連載して来ました。
この時に、潮来に城を構えていた平氏一族(行方氏一族)の島崎氏の終焉の地を紹介しました。
(記事は ⇒ 常陸国における源平合戦(19) 島崎氏終焉の地

この時に水郡線の上小川駅手前の頃藤に残されている島崎氏親子を祀った祠を探しきれていなかったので、再度訪れて捜して見つけました。

この地には中世に佐竹氏家臣の小川氏が頃藤城(館)におりました。

PB010585s.jpg

以前捜したときは、藝文の2017年6月号の記事に記載されていた写真を頼りに捜していたのですが、その後、これを島崎氏の子孫の方などにより整備されたようなので、その写真を頼りに探してみました。

PB010588s.jpg

立派な石碑が建てられていました。
「天正十九年二月九日 嶋崎城主安定公・長子徳一丸終焉の地」と書かれています。

PB010589s.jpg

以前はこの真中の祠と、よく読み取れない看板があっただけのようです。

PB010586s.jpg

こちらの建て看板は昭和五十九年に地元の保存会(舘史跡保存会)の方達が立てたもののようです。
ただ、字がかすれた部分が多くよく読むことが出来ません。
島崎城の城主であった島崎安定は、ここの小川大和守義定の娘を妻としていたそうですので、この縁故のある地に送られたのでしょう。
そして、佐竹氏の命で殺害せざるを得なかったようです。
水戸の六地蔵寺に残された記録では、安定は横死、一徳丸(徳一丸)は生害となっており、ここの城主小川氏(島崎安定の岳父)が家臣の清水信濃守に命じて親子を殺させたといわれています。
一般には横死は不慮の死、生害は自殺でしょう。父安定は鉄砲で撃たれて死んだとも。子の徳一丸は自害という事でしょう。

小川氏は安定の妻の父親ですから、お互いに敵味方ではない気持ちが強かったと思います。
どのような気持だったのでしょう。
殺害後ここに祠を建て、六地蔵寺にて供養をして、小川氏や清水氏のご子孫も、その供養を続けてこられたようです。

PB010590s.jpg

今は民家(清水家)のある側の作業小屋脇の小道の先端に置かれていました。
この先は竹薮で、すぐ崖となっています。

島崎氏の保存会の書かれているHPなどによると、長子徳一丸には弟・島崎吉晴がおり、佐竹氏の攻撃の際には、家臣の佐藤豊後守とともに甲州に逃れて、後に常陸国多賀郡に戻って、多賀郡島崎氏の祖となったと書かれていました。

島崎城主の墓は牛堀にある長国寺に子孫たちが宝永4年(1707年)に建てたそうです。



常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/11/08 07:02
コメント

管理者のみに表示