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硯の宮神社

 中世の潮来の町に中心であったのは、恐らく国道51号線の1本内側を走る県道5号線の「辻」交差点辺りではないかと思う。
普段はバイパスや国道なども出来てこの道を通る事もない。

「辻(つぢ)」というのも元は「津知」と書いたものと思われる。
この辻交差点のすぐ近くに「硯の宮神社」があり、少し思うところがあって先日こちらに足を伸ばした。

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丁度道の角に神社がある。

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そしてこの角を曲がっていくと潮来では有名な酒造所「菱友酒造」の工場があり、この道を進む前川の川岸に出る。
昔はこの前川は北浦から潮来に通じるかなり広い川だったと思う。
江戸まではこの川岸に北関東や仙台藩などの奥州(東北)方面などからの河岸が並んでいたという。
そしてそこに米の倉庫などが並んでいたという。

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今回ここをまた訪ねてみようと思いついたのは、先日何回かに亘って書いてきた「常陸国における源平合戦」の記事を冊子にまとめておこうと思い、改めて読んでみたが、少し足りない内容が気になった。
冊子の方は、とりあえず前の内容でまとめては見たが、少し後から補足しておこう。

この神社は応神天皇を祀った「今宮八幡社」といったという。また場所が「辻」なので「辻の八幡さま」と称したという。
しかし、源頼朝が鹿島神宮に参拝して戦勝祈願の祈願文を作成した時の硯(すずり)をこの八幡様に奉納したといわれていて、これを聞いた水戸藩の光圀(黄門様)がこの神社の名前を「硯宮神社」に改めさせたという。

確かにこの目の前の道を東に進むと大船津にでて、その北浦を渡れば鹿島神宮は目の前だ。
問題は何時鹿島神宮を参拝した時なのかという時が気になっていた。

候補は2つあり、一つは頼朝が挙兵して破れて房総へ逃げたとき。もう一つは富士川の合戦で勝利した後に常陸の国府(石岡9に入り、常陸国奥七郡を支配していた佐竹氏を攻めたときだ。どちらなのだろうと少し年表を開いてみた。

治承4年(1180年)
  8月17日 伊豆で挙兵
  8月23日 石橋山の戦いに敗北箱根に逃げる
  8月28日 真鶴岬から舟で房総半島に逃げる。29日に猟島(現・鋸南町竜島)に到着。
  9月4~19日 房総の有力者(上総介広常と下総の千葉介常胤)を味方に引き入れる。
  10月2日 3万騎を集め、武蔵国に到着
  10月7日 相模国を経て鎌倉に入る
  10月20日 頼朝軍20数万騎で富士川を挟んで平家軍と対峙。
       水鳥の一群が飛び立ったその羽音に驚いて平氏軍は退却
  10月27日 佐竹氏討伐のため鎌倉から常陸へと出陣
  11月4日  頼朝、常陸国府(現、石岡)到着。
  11月5日 佐竹秀義(弟)は頼朝の帰順勧告に従わず、金砂山城にたてこもった。
       兄義政は国府(現石岡)に向かうが、園部川にかかる大矢橋で謀殺された。
  11月6日 佐竹義季の手引きにより金砂城が陥落。
  11月7日 金砂城は焼かれ、は佐竹秀義花園城(現、北茨城市)へ逃げる
  11月8日 佐竹の奥七郡の領地は接収され、佐竹氏の家臣等10数人も捕まる。
       頼朝は鎌倉へ向かうが、常陸国府(石岡)から湯袋峠?を越えて小栗に立ち寄る。
  11月12日 武蔵国に入る
  11月17日 頼朝鎌倉に到着

この鹿島神宮への戦勝祈願は、やはり富士川合戦の後ではないかと思われる。
ただ、この上の日程を見てみると、頼朝自身は鹿島神宮には参拝していないように見える。
指揮もとらねばならないし、鎌倉に向かうときに逆方向の小栗から武蔵国を通っている。
常陸国府(現石岡)で、鹿島神宮への祈願文をしたため、それを部下を使って神宮まで運ばせた。
また、その書いた硯を、源氏の守り神ともされた八幡(大菩薩)に奉納した。
こんなところだろう。
どんな硯かというと「「中国で産する馬蹄石(ばていせき)と言う珍しい物」(光圀の言い伝え)という。

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ただこの神社は、昭和54年に火災で消失し、昭和56年に再建したものだそうです。

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神社の裏側が大きく開いており、ゲートボール場になっていました。
ただし、ここには昔の「津知村役場」がありました。

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津知村はこの辺りから、北部の大生地方手前、築地地区辺りまでありました。
北部にあった津知小学校はだいぶ前に閉校になっています。
「津=湊、船着き場」を知る入口 ⇒ 津知 ⇒ 辻 となっていったものだと思われます。


潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/11/17 15:01
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