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霞ヶ浦の佃煮創業石碑

 新年明けましておめでとうございます。
今年は久しぶりの寝正月で、ようやく始動し始めました。

毎年1年の経つのが早くなりますが、先を考えるともう少し何とか自分の納得する人生を送りたいのですが・・・
こればかりは思うようになりません。
今年も何か形になる物を残したいとは思いますが、徐々に動きは鈍くなり、やはり
「七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」
という事になるのでしょうか。

まあ、これも好きなことをやりながら無理をしないなどと、自分勝手に解釈して行きましょう。

今回紹介するのは、霞ヶ浦の北側を走る国道355線沿いの行方市麻生の少し先にある「上羽神社」境内に立つ「佃煮創業の碑」についてです。
この神社も散策ついでにかなり前に立ち寄っていましたが、最近は前を素通りしてばかりで少し申し訳なく思い、あまり知られていないので紹介がてら年末に立ち寄りました。

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国道沿いに鳥居が有り、神社とすぐにわかりますが、ちょこんと建っているという感じの神社で、立ち寄る人も少ないようです。
その境内に大きな石碑が置かれています。

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石碑は「佃煮創業記」と書かれていて、全て漢文で書かれています。建てられたのは明治34年です。
当時は霞ヶ浦は東京までの船輸送が盛んで、活気があった頃でしょう。
漢文の内容はよく読みきれないが、説明によると明治にの初期(明治7年?)この地(粗毛:ほぼけ)の奥村吉郎兵衛が、東京に出て佃煮製法を学び、この地に戻り、まず「ハゼ」の佃煮製造を始めたのだという。
明治10年に西南の役が起こったときに、この佃煮が将兵の食料として注目され、この地の産業として定着したといいます。

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この神社は鳥居の扁額に「上羽神社」と書かれており、奥に拝殿があります。

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そして拝殿の裏側には2つの祠(本殿)が並べられています。
1つは上羽神社(大己貴命、倉稲魂命)ともう一つは稲荷神社だそうです。

また神社の隣には西南戦争から太平洋戦争による麻生町の戦死者200余名の戦没者の大きな慰霊碑が置かれていました。

地名の「粗毛:そぼけ」はかわった地名ですが、由来は地形から「崩(ほう)ける」の言葉が元になっているいるようです。

また佃煮は江戸の佃島が発祥と思われますが、この佃(つくだ)という漢字の意味は平安初期の荘園の直営田という意味合いからつけられた田をいったようだ。
江戸の佃島は徳川家康が本能寺の変の時に、岡崎城へと戻ろうとしたが、川を渡る舟が無かった。この時に摂津国佃村の漁民の舟で助けられた。この恩に報いようと江戸の佃島の開発時にこの佃村の漁民を入植させたという。


小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/01/06 11:11
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