歴史が少し身近に感じた時(南北朝)
学校で習う歴史とはいったい何なのか?
私はどうも暗記科目が苦手で、特に人の名前などを覚えることに苦痛を感じてきたように思う。
歴史科目は嫌いではなかったが、試験の成績は振るわず次第に苦手意識を持つようになった。
大学受験では高校の途中から理系と文系に分かれ、社会の科目も日本史と世界史が選択科目になったように思う。
まあ、国公立を受験せずに私立だけを狙えば、これもまたやらなくても済んだが、第一志望に国立大を選んでいれば理系は世界史、文系は日本史の選択が大多数であった。
まだ共通一次試験などがなく、もう55年ほど前のことで、記憶も定かではなくなった。
しかし、自分が、今こうして「地域に眠る埋もれた歴史の掘り起し」などというテーマでネタを探しているなどという事は昔は考えもしなかったことだ。
小中高校時代の日本の歴史の授業も、先生には少し変わった先生もいて、授業は結構面白かったが、どうしても最後はテストで点が取れなければ勉強ができないという思いだけが残った。
しかし今はというと、わからなかったりすることはネットでほとんどわかるし、年代や名前の漢字なども検索すれば覚えることもいらない。しかし、学校の試験のやり方はあまり変化していないようにも思う。
もっと大きな流れだけを教えて、後は自分でいろいろな書物やネットなどを調べる手法や考える力をつけさせることが学校の役割のように思う。
その中から、さらに自分で過去の文献を探し、古文書などの解読に興味を覚えていく・・・
所詮歴史などは勝者によって創られるものなのだから。
しかし、真の意味の歴史は事実の積み重ねであり、敗者・勝者は関係ないし、歴史認識などというわけの分らない言葉を政治家や学者が言うのも良くわからない。
私は、仕事ついでに(特に定年後)道中で散策して、何か心に引っかかり気になって調べて、面白くなり、今のようなブログ記事を書くようになった。
今回はそんな事の一つの事柄を紹介します。

茨城県の東南部に鹿島神宮にも近い神栖市の波崎地区の民家の庭に「船頭の宮」という小さな宮と鳥居がある。
これは波崎の南側(常陸利根川沿い)の旧道に面した所に鳥居があり清く掃き清められた参道(民家の庭か)を進んだ奥に3つのお宮が祀られている。

3.つあるお宮の右側の宮に石版に由緒書きが記されている。

書かれている内容を下記に示します。
<船頭の宮由来記>
天皇家が二つに分かれ、世の中が乱れていた南北朝時代、上野国(群馬県)の住人・篠塚伊賀守重広は、南朝方の重臣・新田義貞の四天王として各地で奮戦した。
興国三年(1342)、伊賀守は伊予国(愛媛県)世田城にて北朝方の軍勢を迎え撃ったが、奮闘及ばず城は落ちた。しかし武勇に聞こえた伊賀守は、鉄棒を振り回して敵中突破を敢行、今治浦から敵船を奪って、見事に隠岐島へ脱出した。
さて、しばらく隠岐島にて暮らしていた伊賀守であるが、望郷の念禁じがたく、島の農民を船頭にして、郷里目指して帆を揚げた。そして本郷に上陸したのである。その時、乗ってきた船の碇(いかり)を記念にこの地に残した。それが宝蔵院の碇石(いかりいし)である。
伊賀守は、本郷に滞在した後、南朝再興を願って旅だった。残された船頭は、そのままこの地に住み、そしてこの地にて生涯を終えた。
遠い故郷を思いながらも帰れなかった船頭、その無念さに心痛んだ本郷の人々は、その御霊の安らかることを願って祠を建てた。これが船頭の宮の由来である。 篠塚家由来碑
(篠塚家というのはこのお宮を祭っているお宅の姓で、近くに何件が同じ姓の家がある。)
碇石(いかりいし)というのは、船を岸辺に縄でつなぎとめておくための浜辺などの陸地に埋め込んでいる石のことで、これが近くに藁葺き屋根が残されている「宝蔵院」という寺院に残されていると書かれている。
確かにこの場所も今では少し常陸利根川から内陸部ではあるが、川岸までほんの少ししか離れていない。。

宝蔵院はこのお宮から歩いてすぐの場所にある。入り口には立派な山門(仁王門)が置かれていて、この山門と、奥の本堂の屋根は茅葺屋根である。

境内をぐるぐるとまわってこの碇石(いかりいし)を探すが、結局そのありかはわからなかった。
他のサイトで写真は見たことがあるが、まあ悪戯されるかもしれないので、わからなくてもよいだろう。

境内に置かれていた庚申塔も左右に童子を連れているので、江戸時代でも少し古いタイプのようだ。
私のブログとしては、ここでこの紹介だけで終ってはいけないだろう。
南北朝時代などといえばよくわからない事が多いが、常陸国といえば南朝の小田氏と北朝の佐竹氏が最後は争い、北朝方に軍配が上がっている。
1336年末に足利尊氏らがあらたに天皇(光明)を擁立して、後醍醐天皇が吉野に移り、2つの天皇が出来た。その後醍醐天皇派(南朝)の援軍を陸奥国や常陸国に求めようと1338年に北畠親房(ちかふさ)等が伊勢から数隻の船で海路を陸奥国まで行く予定が途中で暴風雨に見舞われ、北畠親房の船だけが銚子の辺りから内海(現在は霞ヶ浦、利根川など)であった東条浦(稲敷郡)に何とかたどり着き、神宮寺城に迎えられた。
前に書いた記事参照: ⇒ 神宮寺城跡(稲敷)
しかし、北畠親房はここを常陸国の北朝方に攻められて、神宮城 ⇒ 阿波崎城へ逃れ、またここから南朝方の中心であったつくばの小田城へ移った。ここで著名な『神皇正統記』を書いたとされています。
しかし、北朝・南朝の勢力は入り乱れ、この小田氏も北朝方に攻められて、味方することになり、北畠親房は1341年にここからここから関城(関氏、筑西市)へ移り、1343年にはここも落城し、大宝城(下妻氏、下妻市)などへ移動しましたがここも落城し、吉野へ戻りました。常陸国には5年間いたといわれています。
<前に書いた記事以下も参照ください>
・関城跡(南北朝の国指定史跡) ⇒ こちら
・大宝城跡 ⇒ こちら
さて、この北畠親房が常陸国南部を転戦していた期間は1338年から1343年の5年間でしたが、話は戻って、この波崎地区に残された「船頭の宮」の話は1342年です。
この話に出てくる「篠塚伊賀守重広」について少し調べてみました。
<Wiki.によれば>
新田義貞の側近で新田四天王の一人だという。
元弘3年(1333年)、義貞の鎌倉攻略に参陣している。建武の新政後の建武3年(1336年)、細川定禅の籠る近江三井寺攻略に従軍した。延元3年/建武5年(1338年)、藤島の戦いで義貞が没すると重広は義貞の弟脇屋義助に従う。興国3年/暦応元年(1340年)には吉野へ向かい後村上天皇へ拝謁した。興国3年/康永元年(1342年)、北朝方の細川頼春と戦い、伊予の世田城に篭城したが、敗戦となり自ら「隠岐島」に落ち延びて同年に没したといわれている。
となっている。これは主に太平記の記述が基で、篠塚(伊賀守)重広の武勇が取り上げられている。
しかし、この波崎に残された船頭の宮には、「しばらく隠岐島にて暮らしていた伊賀守であるが、望郷の念禁じがたく、島の農民を船頭にして、郷里目指して帆を揚げた。」とその後の足取りが記されています。
史実がどうであるかについては不明ですが、とても興味を引く話です。
何の関係もなければ、このような話が残るとは思われないように思います。太平記などに記述があれば史実として歴史の教科書などにも残るのかもしれません。でも話はとても真実味があるように思います。
南北朝などごちゃごちゃの時代に、どこか歴史が身近に感じた瞬間でした。
私はどうも暗記科目が苦手で、特に人の名前などを覚えることに苦痛を感じてきたように思う。
歴史科目は嫌いではなかったが、試験の成績は振るわず次第に苦手意識を持つようになった。
大学受験では高校の途中から理系と文系に分かれ、社会の科目も日本史と世界史が選択科目になったように思う。
まあ、国公立を受験せずに私立だけを狙えば、これもまたやらなくても済んだが、第一志望に国立大を選んでいれば理系は世界史、文系は日本史の選択が大多数であった。
まだ共通一次試験などがなく、もう55年ほど前のことで、記憶も定かではなくなった。
しかし、自分が、今こうして「地域に眠る埋もれた歴史の掘り起し」などというテーマでネタを探しているなどという事は昔は考えもしなかったことだ。
小中高校時代の日本の歴史の授業も、先生には少し変わった先生もいて、授業は結構面白かったが、どうしても最後はテストで点が取れなければ勉強ができないという思いだけが残った。
しかし今はというと、わからなかったりすることはネットでほとんどわかるし、年代や名前の漢字なども検索すれば覚えることもいらない。しかし、学校の試験のやり方はあまり変化していないようにも思う。
もっと大きな流れだけを教えて、後は自分でいろいろな書物やネットなどを調べる手法や考える力をつけさせることが学校の役割のように思う。
その中から、さらに自分で過去の文献を探し、古文書などの解読に興味を覚えていく・・・
所詮歴史などは勝者によって創られるものなのだから。
しかし、真の意味の歴史は事実の積み重ねであり、敗者・勝者は関係ないし、歴史認識などというわけの分らない言葉を政治家や学者が言うのも良くわからない。
私は、仕事ついでに(特に定年後)道中で散策して、何か心に引っかかり気になって調べて、面白くなり、今のようなブログ記事を書くようになった。
今回はそんな事の一つの事柄を紹介します。

茨城県の東南部に鹿島神宮にも近い神栖市の波崎地区の民家の庭に「船頭の宮」という小さな宮と鳥居がある。
これは波崎の南側(常陸利根川沿い)の旧道に面した所に鳥居があり清く掃き清められた参道(民家の庭か)を進んだ奥に3つのお宮が祀られている。

3.つあるお宮の右側の宮に石版に由緒書きが記されている。

書かれている内容を下記に示します。
<船頭の宮由来記>
天皇家が二つに分かれ、世の中が乱れていた南北朝時代、上野国(群馬県)の住人・篠塚伊賀守重広は、南朝方の重臣・新田義貞の四天王として各地で奮戦した。
興国三年(1342)、伊賀守は伊予国(愛媛県)世田城にて北朝方の軍勢を迎え撃ったが、奮闘及ばず城は落ちた。しかし武勇に聞こえた伊賀守は、鉄棒を振り回して敵中突破を敢行、今治浦から敵船を奪って、見事に隠岐島へ脱出した。
さて、しばらく隠岐島にて暮らしていた伊賀守であるが、望郷の念禁じがたく、島の農民を船頭にして、郷里目指して帆を揚げた。そして本郷に上陸したのである。その時、乗ってきた船の碇(いかり)を記念にこの地に残した。それが宝蔵院の碇石(いかりいし)である。
伊賀守は、本郷に滞在した後、南朝再興を願って旅だった。残された船頭は、そのままこの地に住み、そしてこの地にて生涯を終えた。
遠い故郷を思いながらも帰れなかった船頭、その無念さに心痛んだ本郷の人々は、その御霊の安らかることを願って祠を建てた。これが船頭の宮の由来である。 篠塚家由来碑
(篠塚家というのはこのお宮を祭っているお宅の姓で、近くに何件が同じ姓の家がある。)
碇石(いかりいし)というのは、船を岸辺に縄でつなぎとめておくための浜辺などの陸地に埋め込んでいる石のことで、これが近くに藁葺き屋根が残されている「宝蔵院」という寺院に残されていると書かれている。
確かにこの場所も今では少し常陸利根川から内陸部ではあるが、川岸までほんの少ししか離れていない。。

宝蔵院はこのお宮から歩いてすぐの場所にある。入り口には立派な山門(仁王門)が置かれていて、この山門と、奥の本堂の屋根は茅葺屋根である。

境内をぐるぐるとまわってこの碇石(いかりいし)を探すが、結局そのありかはわからなかった。
他のサイトで写真は見たことがあるが、まあ悪戯されるかもしれないので、わからなくてもよいだろう。

境内に置かれていた庚申塔も左右に童子を連れているので、江戸時代でも少し古いタイプのようだ。
私のブログとしては、ここでこの紹介だけで終ってはいけないだろう。
南北朝時代などといえばよくわからない事が多いが、常陸国といえば南朝の小田氏と北朝の佐竹氏が最後は争い、北朝方に軍配が上がっている。
1336年末に足利尊氏らがあらたに天皇(光明)を擁立して、後醍醐天皇が吉野に移り、2つの天皇が出来た。その後醍醐天皇派(南朝)の援軍を陸奥国や常陸国に求めようと1338年に北畠親房(ちかふさ)等が伊勢から数隻の船で海路を陸奥国まで行く予定が途中で暴風雨に見舞われ、北畠親房の船だけが銚子の辺りから内海(現在は霞ヶ浦、利根川など)であった東条浦(稲敷郡)に何とかたどり着き、神宮寺城に迎えられた。
前に書いた記事参照: ⇒ 神宮寺城跡(稲敷)
しかし、北畠親房はここを常陸国の北朝方に攻められて、神宮城 ⇒ 阿波崎城へ逃れ、またここから南朝方の中心であったつくばの小田城へ移った。ここで著名な『神皇正統記』を書いたとされています。
しかし、北朝・南朝の勢力は入り乱れ、この小田氏も北朝方に攻められて、味方することになり、北畠親房は1341年にここからここから関城(関氏、筑西市)へ移り、1343年にはここも落城し、大宝城(下妻氏、下妻市)などへ移動しましたがここも落城し、吉野へ戻りました。常陸国には5年間いたといわれています。
<前に書いた記事以下も参照ください>
・関城跡(南北朝の国指定史跡) ⇒ こちら
・大宝城跡 ⇒ こちら
さて、この北畠親房が常陸国南部を転戦していた期間は1338年から1343年の5年間でしたが、話は戻って、この波崎地区に残された「船頭の宮」の話は1342年です。
この話に出てくる「篠塚伊賀守重広」について少し調べてみました。
<Wiki.によれば>
新田義貞の側近で新田四天王の一人だという。
元弘3年(1333年)、義貞の鎌倉攻略に参陣している。建武の新政後の建武3年(1336年)、細川定禅の籠る近江三井寺攻略に従軍した。延元3年/建武5年(1338年)、藤島の戦いで義貞が没すると重広は義貞の弟脇屋義助に従う。興国3年/暦応元年(1340年)には吉野へ向かい後村上天皇へ拝謁した。興国3年/康永元年(1342年)、北朝方の細川頼春と戦い、伊予の世田城に篭城したが、敗戦となり自ら「隠岐島」に落ち延びて同年に没したといわれている。
となっている。これは主に太平記の記述が基で、篠塚(伊賀守)重広の武勇が取り上げられている。
しかし、この波崎に残された船頭の宮には、「しばらく隠岐島にて暮らしていた伊賀守であるが、望郷の念禁じがたく、島の農民を船頭にして、郷里目指して帆を揚げた。」とその後の足取りが記されています。
史実がどうであるかについては不明ですが、とても興味を引く話です。
何の関係もなければ、このような話が残るとは思われないように思います。太平記などに記述があれば史実として歴史の教科書などにも残るのかもしれません。でも話はとても真実味があるように思います。
南北朝などごちゃごちゃの時代に、どこか歴史が身近に感じた瞬間でした。
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