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玉里御留川(その二)御留川の設定経緯

 玉里御留川(たまりおとめがわ)の制定経過については、制定後に明治維新まで川守として続いた鈴木家文書から読み解く事ができる。
この鈴木家は慶長年間(1596年~1615年)には地代官を勤め、鳥見役(鷹狩場の管理)も兼ねていた、地元の有力者であった。

1) 寛永16年(1625年)に鈴木七左衛門は、玉里入海を水戸藩の「御留川」にしたいと注進した。
2) これに対し霞ヶ浦の四十八津組合の村々がこぞって反対し、幕府に異議を申し立てた。
3) 鈴木七左衛門は幕府の開いた江戸の評定所において、水戸様の御留川となるように説明を熱心にした。
4) この結果、幕府より下記の範囲の玉里入海の御留川が公式に認定された。

(玉里御留川の範囲)
 下玉里村稲荷の森より、水上を見通し、安食村柊塚(ひいらきつか)を結んだ線 と
 石川村境堂より沖の三本杭と高崎村と田中村の境(後に鉾の宮とされた)を結んだ線 の間の領域

 高崎の鉾の宮:現在場所は不明だが、下高崎の夷宮(現:恵比寿神社、西宮神社)あたりと推定される
 境堂:石川村のお堂(阿弥陀堂、現:宝珠庵)とされる
 稲荷の森:下玉里の大井戸に渋井稲荷神社がありこの辺りか? 稗蔵(ひえくら)地名がある
 柊塚(ひいらぎつか):かすみがうら市安食(あんじき)には旧字名に「柊(ひいらき)」がある。この辺りか?

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ここで各漁場の名前が「○○川」とかわの名称がついているが、これは一般的な川のことではなく、御留川ではその漁場の名前をそれぞれ川の名前をつけて呼んでいるのである。
また、本来の御留川の設定範囲は「内川」とし、現在の「かすみがうら大橋」までの領域を、この水戸藩玉里御留川に入ってくる魚たちの通り道(御川筋)として「外川」と名づけて呼んだのである。

これは本来の玉里地区の御留川は両岸ともに水戸藩の領域であるが、その外側には水戸藩以外の村も存在したのである。
例えば、八木蒔(やぎまき)村や沖須村(現在は沖洲)は水戸藩ではなくそれぞれ旗本新庄氏知行所、麻生藩であった。
これらの詳細は次回へ。




玉里御留川 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/02/14 12:14
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