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玉里御留川(その三)御留川と御川筋

 玉里御留川がどのように行われていたのか?
少し気になりましたので、制度設定後の運用について見てみましょう。

この御留川の設定時(寛永2年:1625年)に際して、霞ヶ浦には四十八津の組合があり、その組合に入会する事で漁業が出来た。
しかし、この御留川設定により、その設定範囲(高崎村鉾の宮~石川村・三村村の境堂、下玉里稲荷の森~安食村柊塚)での漁が自由にできなくなった。そして、当初は直網(じきあみ)で水戸藩の奉行のもとで御川守である鈴木家が立会い、地元の漁師が参加して大網を引いていた。これが天和3年(1683年)に本格的な入札請負制に変わったという。その経緯などを見ていこう。

1) 直網(じきあみ):大きな網を御留川内に投げ入れて網元より雇われた漁師がこれを浜で引いて根こそぎ魚を捕る。
 
直網漁

上図が直網漁の様子である。
2つの直網を多くの人間が高崎村、玉里村の浜で引いています。
(初期には大網は二株あったと記録がある)

この図は高崎村夷宮前の「川:網引場」で10月に網おろしの神事が行われ、大網漁(地引網)が多くの雇われた引子達により引かれている様子が描かれています。
また近くの子供達も集まっているようです。

霞ヶ浦では一年中魚はいるが、当時の漁の期間は冬から春(10月~翌年3月)とされていたようです。
また玉里御留川定法の定めに御留川内でも秋3ヶ月はこの御留川の規制によらずに住民は漁ができると解釈できる文書もあり、近隣住民の不満を和らげるために規定に盛り込まれたものと思われます。

この漁で捕れた魚は鯉を筆頭にサイ(にごい)、マルタ(うぐい)、鮒、うなぎ、蝦などであった。
また餅網などによる鴨などの水鳥猟も行われた。
御留川の制定初期はどの程度の漁獲量があったのかはあまり詳しい資料はないが、初期はそれまで地元の小漁師が掛網等にて漁をしていただけであるので大漁が続いたという。
初期の11年間で魚鳥代金二千両余りの利益があったという。

しかし大漁が長くは続かず、寛永13年(1636年)にこの直網が中止となった。
そして、御留川内の漁を希望するものに競争入札で請け負わせる「入札運上」になった。

2) 入札運上制:
 運上人の記録
 ・地元の漁師54人:1年間
 ・水戸の笹嶋九兵衛:2年間
 ・下玉里の漁師4人:2年間
 この5年間でこの入札運上は終わりとなった。
 終わりとなった理由は明らかではないが、霞ヶ浦四十八津組合との話し合いがうまくいかなかったのではないかと考えられる。

その後も御留川の漁は不良が続いていたようだ。
資料では宝暦8年(1758年)の記録では、直網の53年間で2650両となっており、最初の11年間で2000両もあったことから、その後は650両しか収益が上がらなかったようである。

3) 入札請負(いれふだうけおい):
 天和3年(1683年)に直網が廃止され、入札請負制度になった。
この運上人は江戸の駿河屋市衛門と大阪屋左兵衛の2人であった。
この運上人のみが御留川での漁の権利を有し、その下請け人によって、実際の漁は行われていたと考えられる。

どうやらこの2人は江戸の魚問屋と思われ、捕れた魚は江戸の魚市場に運ばれたと思われる。

しかし、この玉里地区の前の指定領域だけでは魚の取れる量が限られてくる。
そこで、さおの漁場に繋がった入り口部分を御川筋と定め、今までの制定範囲を「内川」、御川筋を「外川」と呼んで漁場を広げて行った。
いつ頃からこの御川筋が加わったのかは定かでないが、江戸中期の享保期(1720年代)頃から資料でははっきりしてきている。

4) 小漁場(こりょうば)
また「小漁場(小猟場)」という猟(漁)を保障する場所を定めている。
特に高崎村と対岸の石川村の間には葦が密生した谷原が存在していた。
この辺りの狭い領域を、石川村と高崎村に小漁場として認めていたようだ。

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上の地図は高浜に恋瀬川が流れ込んでいる辺りを示した明治17年の地図にある葦原・谷原などが描かれている。
その谷原部分に江戸時代の谷原の境界を点線で追加した図である。
明治17年の地図よりも谷原は手前(小さかった)ようである。

5) 御川筋(外川)

  本来の御留川範囲ではなく、この御留川に流れ込む川筋(御留川と霞ヶ浦との間の高浜入り部分)を御留川と同様に水戸藩の漁場として設定した。
これはいつ頃成立したかが不明であるが、江戸中期には本格的に実施されていたようである。

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これは昨日載せた地図である。
御川筋と呼ばれる広い領域をそれまでの御留川に追加した形で水戸藩が強制的に定めたものだろうと思われる。
当然四十八津の反対もあったし、水戸範囲外の村もその間に含まれているため、その村からの反発などもあった。

出島(かすみがうら市)側は石川村から田布施村まで水戸藩の領地であったが、対岸の玉里村側は高崎村から玉造村までの水戸藩の領地の中に「沖須村(現;沖洲)」と「八木蒔村」の2村は麻生藩と麻生藩と関係の深い新庄氏の知行地であった。

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上記図は天明8年(1788年)に八木蒔村から出された網漁の伺い書の図である。
御留川の川筋を御留川と同じように制定しているが、八木蒔村は新庄勝三郎殿の知行地である。

下玉里御川守の源太左衛門側は、上図の浜村の渡し場に置かれた御制札場(ごせいさつば)と小川川尻を結ぶ線(陸地から約750m)より外での漁を認めないとし、それに異議を唱えた八木蒔村では、江戸に出て控訴するとのやり取りが残されている。
ただ、どのように決着したのかは分らない。

この御制札場(ごせいさつば)というのは、高札のことで、法令や禁止事項を知らしめる札の建てる場所であり、浜村の船着場にあったという。
この船着場はかすみがうら大橋が出来るまでは柏崎と浜をつなぐ渡し舟が出ていた。
学校に通う生徒の足でもあったという。

またここから高浜よりにこの高浜入りを埋め立てて干拓して農地にしようとの計画もあった。
その埋め立てに筑波山を削ればよいなどという乱暴な意見を真面目くさっていう議員もいたという。

今回はここまで。
次回もう少し追加を書きます。






玉里御留川 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/02/15 14:24
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