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玉里御留川(その五)御留川余話

 水曜日は仕事で朝からこの霞ヶ浦を石岡から潮来、銚子へと車で走りました。
月に何回か走っているのですが、この御留川記事の辺りに思いを致し、少し違った気分になっていました。

玉里地区を過ぎ、行方市に入ると霞ヶ浦沿いの堤防沿いには数本のポプラの木が見えてきます。
ここは霞ヶ浦が泳げた頃に戻そうと、湾になっている所に砂を入れ、砂が流れ出さないように防砂用の波除を設けた「ほほえみの丘」と呼ばれるところです。
ただ、ここで泳げるようになるにはまだまだ年数がかかるのかもしれません。

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そして通り(355号線)の左側には「三昧塚古墳(墳長:82.1m前方後円墳、5世紀半ば頃の築造?」がきれいに芝生などで化粧されているのが見えます。
この三昧塚古墳からは頭に被る金銅製の冠(国の重要文化財)が出土しています。
この冠には周りに馬の形をした飾りがあり、馬で移動するときにそれが揺れるのです。
ここに5世紀半ばに騎馬民族がいたのかもしれないと思わせる大変貴重な装飾品です。

王冠
(茨城県立歴史館の再製レプリカ(復元品))

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三昧塚古墳

常陸国風土記には常陸の馬の話しが出てきますが、有名な常陸の馬と呼ばれるのは「麻生の馬」だと書かれています。
麻生は霞ヶ浦に沿ってもう少し東側になりますが、結構近いです。

さて、そこを少し行くと沖洲ですが、江戸時代は沖須村と書きました。所属は水戸藩ではなく「麻生藩」でした。
そして霞ヶ浦沿いの低地を行く旧道が右に別れ、国道はその左手の少し小高くなった台地へ上っていきます。
この旧道と現国道とにはさまれた場所がこんもりと木が茂っています。

近づくとこのこんもりした森の中は一面の竹林が続きます。
またよく見るとこんもりと土が盛り上がっていて、この場所は古墳である事がわかります。

この沖須(沖洲)にはいくつか特徴のある古墳が点在していて、「沖洲古墳群」と呼ばれています。

今上に書いた分かれ道の先にある古墳は「勅使塚古墳(全長64m、4世紀後半)と呼ばれるもので、昔、勅使(ちょくし)がここで倒れてなくなり、その勅使を葬ったという伝承があるのです。
古代には常陸国に入るには恐らく霞ヶ浦を舟で渡ったと思われますので、その時の常陸国の中心はまだ石岡にはなかったかもしれません。

また、特筆すべきはこの勅使塚古墳が茨城県ではもっとも古い時代の築造(4世紀末頃?)ではないかといわれている事です。
関東地方の古墳では、東京湾を舟で渡ってきたところの千葉県市原市惣社にある神門古墳群(ごうどこふんぐん)あたりが最も古く、3世紀の中葉ではないかといわれていますが、調査をすればこの古墳もかなり古いのかもしれません。

東日本で2番目に大きな石岡市にある国指定史跡の舟塚山古墳は5世紀の半ば頃の築造といわれています。

その頃を考えるとロマンが膨らみますね。これからもっと知られてもよさそうですね。

私もこのあたりを通るときに時々三昧塚古墳の上にもぼって霞ヶ浦や筑波山を眺めます。

古代に夢を馳せるのも良いですよね。

夜に戻ってきましたが、潮来周辺ではみぞれが降っていました。
石岡に戻ってきたら雨も降っていませんでした。

玉里御留川 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/02/19 09:15
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