玉里御留川(その四) 御留川の調査資料を読んで感じたことなど
玉里御留川は江戸時代の水戸藩の話ですが、水戸とこの霞ヶ浦の高浜入り地区(旧玉里村、対岸の旧出島村)地区とはかなりはなれています。
しかし、江戸とは水戸からも霞ヶ浦経由で荷物の運搬も人の行き来も繋がっていました。
玉里御留川制度に関して、少し追加で知り得た事などを参考までに載せておきます。
1) 箕和田御留川について
水戸藩が玉里地区沿岸の霞ヶ浦入り江を御留川にすることを願い出て認められたのは、江戸時代初期の1625年である。
しかし、実は霞ヶ浦ではそれ以前に「御留川」を設定されている場所があった。
それが「箕和田(みのわだ)御御留川」と呼ばれる場所で、これは江戸の幕府(公儀)の御留川であった。

霞ヶ浦絵図(写) 本図は制作年は不明ですが、潮来は板久では無く、現在の「潮来」表現であり1698年以降に書かれたものと推察されます。御留川は「玉里御川」と表現されています。
図中の赤丸印は御留川の網引場=川を現しています。
「水戸藩玉里御留川」の冊子には南が上になるように表示されていますが、一般の地図で見慣れた北を上に表示し直しました。
さて、この「箕和田」は、上図の南側、浮島の東の湾となっているところです。
この箕和田が徳川幕府の御留川となったのは、いつ頃制定されたのかははっきりしないが、恐らくこの幕府が先に箕和田御留川を設定して、あわてた水戸藩が自分も・・・と乗り出したのだろう。
この箕和田(みのわだ)地区は浮島東側の湾ではあるが、現在は食糧増産ということで埋め立てられ、本新島干拓地(昭和31年完成)となった。浮島のチュウリップ畑で有名になった和田公園の東側にあたる。
ただ徳川幕府の御留川としては、江戸中期頃から水深がかなり浅くなって余り機能しなくなったようだ。
浮島も昔は霞ヶ浦に浮かぶ島であったが、昭和7年から27年に野田奈川干拓がおこなわれ、陸続きとなっった。
昭和30年代には、夏は海水浴(湖だが)などを楽しむ多くの観光客が訪れたという。
昭和33年に茨城県が観光用に制作された観光映画がU-Tubeにアップされています。
少し長いですが当時の様子がかなりよく分ります。
この幕府の御留川の話を読んでいて、思いだしたことがある。それは成田北側の長沼の訴訟事件である。
10年以上昔、成田空港に向かう途中の街道に「長豊街道(諭吉通り)」と書かれた看板を見て、福沢諭吉とここでの長沼訴訟の関係をはじめて知った。
その時の記事は ⇒ こちら(諭吉通り)
この長沼訴訟の手伝いをして、最後まで気にかけていたという福沢諭吉。
死の直前になって、この沼がここで生活する住民(漁民)の手に払い下げらたことを知った諭吉は大変安堵したといわれています。
2) 稲荷の森について
玉里御留川の初期の設定範囲は下玉里の稲荷の森と対岸の安食村の柊(ひいらぎ)塚を結ぶ線だと書かれていた。
この稲荷の森は何処なのだろう。
現在の大井戸公園の高崎・高浜寄りに地図では示されている。

この場所は昔散策した事があった。
あたり一面の蓮田に中に、一つだけポツンと木の茂みがあり、こじんまりした神社があった。


そこの神社(渋井稲荷神社)の説明看板には次のように書かれていた。

この渋井は「玉里六井」といわれる昔からの湧き水の井戸の一つで、ここには集落があったという。
御留川の飼料によれば、ここの組頭・作衛門は、この集落内の畑地などを御留川のために水戸藩に差し出したという。
見ての通りの低地であり、度々洪水に悩まされていた地で、記録によれば享保14年(1729年)に水戸藩の指示で大井戸西部湖岸(現・平山集落)に部落全員が移住したという。
最初説明を読んだときには、御留川には集落のほとんどが反対して、場所を移住したのだと思ったのだが、水戸藩が土地を提供したようである。
ただそれでも、このような土地に住んでいたことを考えると、漁で生業を立てていた漁民も多くいたであろうし、舟で生活していたものもいたのではないだろうか。
葛飾北斎が富岳三十六景の中で、唯一常陸国から見た富士山を描いた版画がある。

「常州牛堀」と題されたこの絵は、潮来の隣「牛堀」の朝の風景である。
これは恐らく漁師ではなく、鹿島巡りなどの観光客を乗せる舟だろうが、水夫たちは舟で寝泊りし、朝早く米を洗っているのだろう。
霞ヶ浦四十八津の組合に入っていた漁民たちも、舟で生活する(寝泊りする)者も結構いたのではないだろうか?
ふと、御留川の資料を見ながらこの北斎の絵を思い出してしまった。
しかし、江戸とは水戸からも霞ヶ浦経由で荷物の運搬も人の行き来も繋がっていました。
玉里御留川制度に関して、少し追加で知り得た事などを参考までに載せておきます。
1) 箕和田御留川について
水戸藩が玉里地区沿岸の霞ヶ浦入り江を御留川にすることを願い出て認められたのは、江戸時代初期の1625年である。
しかし、実は霞ヶ浦ではそれ以前に「御留川」を設定されている場所があった。
それが「箕和田(みのわだ)御御留川」と呼ばれる場所で、これは江戸の幕府(公儀)の御留川であった。

霞ヶ浦絵図(写) 本図は制作年は不明ですが、潮来は板久では無く、現在の「潮来」表現であり1698年以降に書かれたものと推察されます。御留川は「玉里御川」と表現されています。
図中の赤丸印は御留川の網引場=川を現しています。
「水戸藩玉里御留川」の冊子には南が上になるように表示されていますが、一般の地図で見慣れた北を上に表示し直しました。
さて、この「箕和田」は、上図の南側、浮島の東の湾となっているところです。
この箕和田が徳川幕府の御留川となったのは、いつ頃制定されたのかははっきりしないが、恐らくこの幕府が先に箕和田御留川を設定して、あわてた水戸藩が自分も・・・と乗り出したのだろう。
この箕和田(みのわだ)地区は浮島東側の湾ではあるが、現在は食糧増産ということで埋め立てられ、本新島干拓地(昭和31年完成)となった。浮島のチュウリップ畑で有名になった和田公園の東側にあたる。
ただ徳川幕府の御留川としては、江戸中期頃から水深がかなり浅くなって余り機能しなくなったようだ。
浮島も昔は霞ヶ浦に浮かぶ島であったが、昭和7年から27年に野田奈川干拓がおこなわれ、陸続きとなっった。
昭和30年代には、夏は海水浴(湖だが)などを楽しむ多くの観光客が訪れたという。
昭和33年に茨城県が観光用に制作された観光映画がU-Tubeにアップされています。
少し長いですが当時の様子がかなりよく分ります。
この幕府の御留川の話を読んでいて、思いだしたことがある。それは成田北側の長沼の訴訟事件である。
10年以上昔、成田空港に向かう途中の街道に「長豊街道(諭吉通り)」と書かれた看板を見て、福沢諭吉とここでの長沼訴訟の関係をはじめて知った。
その時の記事は ⇒ こちら(諭吉通り)
この長沼訴訟の手伝いをして、最後まで気にかけていたという福沢諭吉。
死の直前になって、この沼がここで生活する住民(漁民)の手に払い下げらたことを知った諭吉は大変安堵したといわれています。
2) 稲荷の森について
玉里御留川の初期の設定範囲は下玉里の稲荷の森と対岸の安食村の柊(ひいらぎ)塚を結ぶ線だと書かれていた。
この稲荷の森は何処なのだろう。
現在の大井戸公園の高崎・高浜寄りに地図では示されている。

この場所は昔散策した事があった。
あたり一面の蓮田に中に、一つだけポツンと木の茂みがあり、こじんまりした神社があった。


そこの神社(渋井稲荷神社)の説明看板には次のように書かれていた。

この渋井は「玉里六井」といわれる昔からの湧き水の井戸の一つで、ここには集落があったという。
御留川の飼料によれば、ここの組頭・作衛門は、この集落内の畑地などを御留川のために水戸藩に差し出したという。
見ての通りの低地であり、度々洪水に悩まされていた地で、記録によれば享保14年(1729年)に水戸藩の指示で大井戸西部湖岸(現・平山集落)に部落全員が移住したという。
最初説明を読んだときには、御留川には集落のほとんどが反対して、場所を移住したのだと思ったのだが、水戸藩が土地を提供したようである。
ただそれでも、このような土地に住んでいたことを考えると、漁で生業を立てていた漁民も多くいたであろうし、舟で生活していたものもいたのではないだろうか。
葛飾北斎が富岳三十六景の中で、唯一常陸国から見た富士山を描いた版画がある。

「常州牛堀」と題されたこの絵は、潮来の隣「牛堀」の朝の風景である。
これは恐らく漁師ではなく、鹿島巡りなどの観光客を乗せる舟だろうが、水夫たちは舟で寝泊りし、朝早く米を洗っているのだろう。
霞ヶ浦四十八津の組合に入っていた漁民たちも、舟で生活する(寝泊りする)者も結構いたのではないだろうか?
ふと、御留川の資料を見ながらこの北斎の絵を思い出してしまった。
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