西廣家住宅(銚子) その一
先日銚子を訪れた際に、川口漁港に近い、国指定有形文化財の「西廣家住宅」へ言って見ました。
前に、天狗湯を捜せで最初に書いた場所です。
(その時の記事 ⇒ こちら)
この国の指定名称は日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」となっており、銚子では木造建築としては数少ない文化財です。
太平洋戦争末期に東京へのB29爆撃機が爆弾を東京で投下した後に、引き上げるルートがこのあたりを通ったということのようです。
爆撃機は残った爆弾を銚子の街に投下して、燃料の節約のために、爆弾を空にして飛び去ったのでしょう。
街としてはいい迷惑ですよね。
街中の木造建築の多くは焼かれてなくなり、残されたコンクリート製の建物が残ったといいます。
市のシンボルである飯沼観音も焼けて、無残な姿であったといいます。
また、現在のヤマサ醤油の工場前の「銚子公正図書館」はコンクリート製のために何とか残り、当時の野戦病院の代わりをしたと聞きました。
横を流れる小川に小さな橋が架かっていますが、戦後の復興により架けられたので「復興橋」と名付けられています。
登録文化財を見るのも大切ですが、その他の苦労した歴史にも思いを馳せて見学したいものです。

佐倉、佐原、成田などとともに四都市として銚子も江戸情緒を感じる街並みの一都市として、国の日本遺産史跡に指定されたのは、平成28年(2016年)4月25日です。
銚子の町並みなどについては坂が多く、黒瓦の家が多い「外川漁港の街並み」なども入っています。
ただ、観光を目的に指定を目指したのでしょうが、佐原などに比べ認知度はイマイチでしょう。
つい最近上の写真のような道の曲がり角に案内板が立てられ、駐車場を確保し、草刈りなどをしてきれいにし始めたようです。
この西廣家の住民への説明・見学会なども登録後にされたようですが、登録後6年が経とうとしていますが、文化財としての説明看板もありません。
やはり遅いですね。
西廣家は江戸時代に和歌山から銚子に来て、財をなし、漁業に転じてイワシの缶詰生産でこの辺りでは大きな土地を有していました。
ここはその缶詰を作るための工場や倉庫を兼ねていました。

写真と左手に駐車場があり、5~6台くらい停められそうです。

治郎吉というのは、西廣治郎吉が漁業をはじめて、屋号としても「治郎吉」を名乗りました。
船の名前は「御岳丸(おんたけまる)」
どうやら、御嶽山(おんたけさん)に信仰があったようです。
信仰して建てた近くの神社も「御岳神社」です。
少し離れた裏山側にありますが、海亀の墓等もあります。
(記事は⇒こちら)

こちらの木造の建物が、直ぐに目に入ります。昭和13年の建物です。
真ん中に白いシャッターがありますが、これは昭和30年に後から付けたものです。
ただここが工場の入口になります。
この建物の1階は土間で工場と連続し、2階部分は地方からやってきた従業員の居住スペースだそうです。


この2回の窓から地方から来た従業員達は何を見ていたのでしょうか?
昭和初期のの建物ですので、窓は今と同じ横開きですね。

登録文化財の倉庫(北倉・南倉)
工場と広場の反対側にある建物は、江戸末期の慶応年間(1865年~1868年)に漁網の保管場所として建てられた木造瓦葺の建物だそうです。
その後は貯蔵庫として使われていたといいます。



(続く)
前に、天狗湯を捜せで最初に書いた場所です。
(その時の記事 ⇒ こちら)
この国の指定名称は日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」となっており、銚子では木造建築としては数少ない文化財です。
太平洋戦争末期に東京へのB29爆撃機が爆弾を東京で投下した後に、引き上げるルートがこのあたりを通ったということのようです。
爆撃機は残った爆弾を銚子の街に投下して、燃料の節約のために、爆弾を空にして飛び去ったのでしょう。
街としてはいい迷惑ですよね。
街中の木造建築の多くは焼かれてなくなり、残されたコンクリート製の建物が残ったといいます。
市のシンボルである飯沼観音も焼けて、無残な姿であったといいます。
また、現在のヤマサ醤油の工場前の「銚子公正図書館」はコンクリート製のために何とか残り、当時の野戦病院の代わりをしたと聞きました。
横を流れる小川に小さな橋が架かっていますが、戦後の復興により架けられたので「復興橋」と名付けられています。
登録文化財を見るのも大切ですが、その他の苦労した歴史にも思いを馳せて見学したいものです。

佐倉、佐原、成田などとともに四都市として銚子も江戸情緒を感じる街並みの一都市として、国の日本遺産史跡に指定されたのは、平成28年(2016年)4月25日です。
銚子の町並みなどについては坂が多く、黒瓦の家が多い「外川漁港の街並み」なども入っています。
ただ、観光を目的に指定を目指したのでしょうが、佐原などに比べ認知度はイマイチでしょう。
つい最近上の写真のような道の曲がり角に案内板が立てられ、駐車場を確保し、草刈りなどをしてきれいにし始めたようです。
この西廣家の住民への説明・見学会なども登録後にされたようですが、登録後6年が経とうとしていますが、文化財としての説明看板もありません。
やはり遅いですね。
西廣家は江戸時代に和歌山から銚子に来て、財をなし、漁業に転じてイワシの缶詰生産でこの辺りでは大きな土地を有していました。
ここはその缶詰を作るための工場や倉庫を兼ねていました。

写真と左手に駐車場があり、5~6台くらい停められそうです。

治郎吉というのは、西廣治郎吉が漁業をはじめて、屋号としても「治郎吉」を名乗りました。
船の名前は「御岳丸(おんたけまる)」
どうやら、御嶽山(おんたけさん)に信仰があったようです。
信仰して建てた近くの神社も「御岳神社」です。
少し離れた裏山側にありますが、海亀の墓等もあります。
(記事は⇒こちら)

こちらの木造の建物が、直ぐに目に入ります。昭和13年の建物です。
真ん中に白いシャッターがありますが、これは昭和30年に後から付けたものです。
ただここが工場の入口になります。
この建物の1階は土間で工場と連続し、2階部分は地方からやってきた従業員の居住スペースだそうです。


この2回の窓から地方から来た従業員達は何を見ていたのでしょうか?
昭和初期のの建物ですので、窓は今と同じ横開きですね。

登録文化財の倉庫(北倉・南倉)
工場と広場の反対側にある建物は、江戸末期の慶応年間(1865年~1868年)に漁網の保管場所として建てられた木造瓦葺の建物だそうです。
その後は貯蔵庫として使われていたといいます。



(続く)
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