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古き石岡の里(茨城廃寺附近)を歩いてみた

 石岡は常陸国の国府(国衙)が置かれたところ。

でもその前に古代茨城郡の郡衙があったらしい。

昨日は少しその近くを散策してみた。

わずかな時間あるきまわっただけだし、久しぶりだったが、色々考える事ができた。

こんなのもまたいい。

自分で住んでいる町を見直して見るのも良いだろう。

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茨城廃寺のあったあたりの台地の上には梅の花が満開だ。

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この地下には今も昔の物が眠っているに違いない。

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おだやかな陽射しがこの舌状台地に1300年を超えて降り注いでいる。

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少し進むと霞ヶ浦の方に下っていく。
そこに竹林があった。
昔もあったのだろうか。

左手にしばらくいけば東日本で2番目に大きい「舟塚山古墳」が悠々と、またしっかりと残されている。
誰の墓かははっきりしないが、昔のこの地の豪族か?
常陸国が出来る前の茨城の国造か、この地の豪族の墳墓には違いない。

かなり昔に、この地に茨城の郡衙が移された。
筑波山、竜神山はどんな姿であったのだろうか・・・・
きっと素晴らしい景色が広がっていたに違いない。

そんなことを思って散歩する人などあまりいない。
農家で畑仕事をしている人以外、殆んど人にも出会わないし、車も殆んど走っていない。


石岡市内の風景 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2022/03/08 12:05
コメント
No title
昔はよく石岡あたりまで走ったものです。勿論帰りは輪行でしたが。国府があったあたりは町の中ですが、もっと前の中心は、いまや畠の中なんですね。鄙びた、良い感じです。
kincyanさん
 おはようございます。朝早くにコメントありがとうございます。
石岡の歴史というと、始まりが常陸国府がおかれた奈良朝はじめにさかのぼりますが、その前をあまり探したり訪れる人はまだ少ないです。
最近、石岡の地が何故常陸国の国府に定められたのかを考えたり、想像したりしています。

この茨城(バラキ)、貝地、中津川、小目代・・・などと呼ばれる地域にはその国府が置かれる前(5~6西紀頃)からの歴史が眠っています。
この春の穏やかな日差しの中を散策してみて、改めて古代の人の思いをかみしめています。

6月に石岡の新たな住民や近隣の人などに石岡の魅力や、知られていない近世の町の様子などを紹介をすることをたのまれて、少し構想を練っています。(まあ、10~20人くらい?)
(中世を省いて、古代と近代に絞ってみたいと思います)

ブログタイトルの「まほら=真秀ら」の意味を自分なりに再確認中なのです。


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