弓削道鏡は石岡に来たのか?
常陸国府であった「石岡」には、弓削道鏡の言い伝えが残されている。
しかし、詳細はほとんど謎に包まれ、古い歴史として埋もれてしまっている。
弓削道鏡といえば女天皇の称徳天皇の病気を治したとされ、その寵愛を受け、法皇となり宇佐八幡さまの神託があったとして、自らが天皇になろうとしたとされ、天皇の(男系)歴史が変わるかもしれなかった事件で、明治維新後は特に極悪人といわれるようにもなった。しかし、日本各地には道鏡信仰は巨根神話と共に今も根深く残っている。
西暦700年生まれという道鏡が宮廷に入ったのは761年、宇佐神託事件は769年。称徳天皇の崩御により、下野薬師寺の別当として左遷となったのは770年。そして下野国で死んだと都に伝えられたのは772年5月である。
当時の下野薬師寺は奈良東大寺・大宰府観世音寺とならんで、僧侶の免状を出すことの出来た寺(日本三戒壇)でした。
昭和35年2月に今東光が小説「弓削道鏡」を書いているが、その最後の文を紹介してみたい。
「薬師寺別当の道鏡は下野から常陸、下総、上野、信濃と遊歴した。法王の栄位を失っても惜しいと思わなかった彼は、女帝とその愛子を失ったことだけは惜しんでもあまりあった。
別当は物言わぬ人になった。
・・・・・・
常陸の石岡に遊んだ時、国司の方に仕える女と一夜をともにして、この女の腹から弓削氏の裔(すえ)が生れたと伝えられている。(一部修正)
・・・・・・・」
まあ確かに、下野国に左遷となった時には、道鏡は70歳を超えていた。
この話しはどこにその根拠があるかは定かではないが、今東光なりの情報から推察したものであろう。
石岡における弓削家は府中六名家(香丸・健児所・金丸・中宮部・弓削・税所)といわれているが、中世では大掾氏の家臣として名前を見ることが出来るが、天正18年末の佐竹氏による攻撃で、府中城が落城し、大掾氏とともに滅びたといわれている。
しかし、この弓削氏の広大な屋敷跡はその後税所(さいしょ)氏が入り、税所門弥の屋敷となり、門弥さまと呼ばれ存続していたといわれている。
今泉義文遺構集「石岡の今昔」の本には、この弓削屋敷のあったといわれる場所が書かれている。

上の地図は石岡駅西側の旧市街地の「字名」を示した地図に弓削屋敷跡らしき場所を書き込んで見ました。
弓削氏の屋敷・領域は現在の石岡の旧市街地のかなり大きな領域を有しており、この地図で「金丸・室ヶ井(室貝)」地区をカバーしていました。
弓削屋敷は江戸時代には税所氏が引き継いだ様で、この近くには弓削丹波守の墓と称される五輪塔四基が大きな欅の下の塚の上にあったという。
しかし、近年になって住宅や商店などの開発により宅地化され、この五輪塔も2基を平福寺に移し、残り2基は地下に埋めたという。
この弓削氏のいたという場所には「鈴の宮稲荷神社」があり、その東側には新地八軒という料亭や宿があり、藤田小四郎などが通っていたといわれるわき道も残されている。
しかし、詳細はほとんど謎に包まれ、古い歴史として埋もれてしまっている。
弓削道鏡といえば女天皇の称徳天皇の病気を治したとされ、その寵愛を受け、法皇となり宇佐八幡さまの神託があったとして、自らが天皇になろうとしたとされ、天皇の(男系)歴史が変わるかもしれなかった事件で、明治維新後は特に極悪人といわれるようにもなった。しかし、日本各地には道鏡信仰は巨根神話と共に今も根深く残っている。
西暦700年生まれという道鏡が宮廷に入ったのは761年、宇佐神託事件は769年。称徳天皇の崩御により、下野薬師寺の別当として左遷となったのは770年。そして下野国で死んだと都に伝えられたのは772年5月である。
当時の下野薬師寺は奈良東大寺・大宰府観世音寺とならんで、僧侶の免状を出すことの出来た寺(日本三戒壇)でした。
昭和35年2月に今東光が小説「弓削道鏡」を書いているが、その最後の文を紹介してみたい。
「薬師寺別当の道鏡は下野から常陸、下総、上野、信濃と遊歴した。法王の栄位を失っても惜しいと思わなかった彼は、女帝とその愛子を失ったことだけは惜しんでもあまりあった。
別当は物言わぬ人になった。
・・・・・・
常陸の石岡に遊んだ時、国司の方に仕える女と一夜をともにして、この女の腹から弓削氏の裔(すえ)が生れたと伝えられている。(一部修正)
・・・・・・・」
まあ確かに、下野国に左遷となった時には、道鏡は70歳を超えていた。
この話しはどこにその根拠があるかは定かではないが、今東光なりの情報から推察したものであろう。
石岡における弓削家は府中六名家(香丸・健児所・金丸・中宮部・弓削・税所)といわれているが、中世では大掾氏の家臣として名前を見ることが出来るが、天正18年末の佐竹氏による攻撃で、府中城が落城し、大掾氏とともに滅びたといわれている。
しかし、この弓削氏の広大な屋敷跡はその後税所(さいしょ)氏が入り、税所門弥の屋敷となり、門弥さまと呼ばれ存続していたといわれている。
今泉義文遺構集「石岡の今昔」の本には、この弓削屋敷のあったといわれる場所が書かれている。

上の地図は石岡駅西側の旧市街地の「字名」を示した地図に弓削屋敷跡らしき場所を書き込んで見ました。
弓削氏の屋敷・領域は現在の石岡の旧市街地のかなり大きな領域を有しており、この地図で「金丸・室ヶ井(室貝)」地区をカバーしていました。
弓削屋敷は江戸時代には税所氏が引き継いだ様で、この近くには弓削丹波守の墓と称される五輪塔四基が大きな欅の下の塚の上にあったという。
しかし、近年になって住宅や商店などの開発により宅地化され、この五輪塔も2基を平福寺に移し、残り2基は地下に埋めたという。
この弓削氏のいたという場所には「鈴の宮稲荷神社」があり、その東側には新地八軒という料亭や宿があり、藤田小四郎などが通っていたといわれるわき道も残されている。
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