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古代道の駅 曾禰駅と曾尼駅はどこか? 名前の由来は?

 私が今住む石岡に来て最初の興味を持ったのが 「古東海道の終点都市 ⇒ 石岡」ということでした。
あれから15年ほどが経ち、調べながらいくつかブログ記事にもしてきましたが、最近はこのテーマでの記事もすっかり遠のいていました。
しかし、また最近になって、いろいろな方がコレに関連した発表などをされるのも見聞きするようになり、また少し興味も再開してきたところです。

一昨日に銚子へ仕事で出かける途中に、天気もあまり良くなかったのですが気になったところを訪ねてみようと思いました。
そこは、「曾尼(そね)」という駅家(うまや)があったと思われる場所です。

駅家(うまや)は大和朝廷が地方との連絡網整備の一環として、租庸調などの律令制整備とあわせて推進した道路整備の途中に設けた「駅」です。
街道を大路、中路、小路に種類分類して、約16km置きに馬を20匹、10匹、5匹をそれぞれ常備し、馬の乗換えができる駅舎を設けたものです。

古代東海道(中路)の最北国であった常陸国は国府「石岡」に10匹の馬を常備した駅家(うまや)があったと考えられています。
その駅舎の場所は特定されていませんが、自分の中では場所はここだという思う場所はあります。

さて、今回の話は常陸国府の駅家の一つ手前の駅の名前について少し興味を持っている。

古代東海道といっても時代によって少し違いがある。
西暦771年に武蔵国(国府:府中市)が東山道の国から東海道の国へ移りました。
そして下総国(国府:市川市)と武蔵国を結ぶ路が整備され、現在の東京近郊の道が通れるようになり、それまで東京湾を横須賀の走水から千葉県の富津岬に舟で渡るルートが廃止されたのです。
このルートの廃止に伴い、いくつかの駅家(うまや)が廃止されていきました。

廃止されたのは西暦805年~815年頃のようです。

その後の古東海道の駅家名は西暦927年に完成した「延喜式」に記載があり、下総国府(市川)の駅家「井上(いかみ)」-「茜津(あかねつ)」-「於賦(おふ)」-「榛谷(はんたに)」-「曾禰(そね)」ときて常陸国国府(石岡へつながる。

一方、その前の駅家(うまや)については正確な記載が少なく、わからないが、常陸国国府と鹿島社(香島社)とを結ぶ古道が整備されていたと考えられ、2つの駅家の名前がある。一つは「板来(潮来)」であり、もう一つが「曾尼(そね)」である。

この曾尼(そね)については、常陸国風土記の行方郡に記載があり、
「郡より西北に向ふと提賀(てが)の里がある。昔、この地に住んでゐた手鹿といふ名の佐伯を偲んで名付けられた。・・・・・。提賀の里より北に、曾尼(そね)の村がある。やはり昔この地に住んでゐたそねびこといふ佐伯の名から名付けられた。今は駅家が置かれ、曾尼の駅と呼ばれる。」(口訳・常陸国風土記より)
と書かれています。
曾尼(そね)は昔住んでいた「そねびこ」という佐伯の名前からついたと言う。
佐伯は大和民族がこの地にやってくる前に住んでいた原住民(縄文人?)のことである。

この曾尼(そね)が延喜式に記載の「曾禰(そね)」と発音が一緒であり、同じ土地名かもしれないとも注目されたようです。
昔の原住民の言葉を知るにはアイヌ語で考えみなければいけないと考え、アイヌ語を当たってみました。

ソネ(sone)=本当の、確かな・・・ という意味があるから ソネ人は本当の民族?などの意味があったのかもしれません。

sone駅

今回石岡から355号線で玉造の町に入り、霞ヶ浦大橋からきている国道354号線を鹿行大橋の方に左折。
暫く進むと新しい玉造の小学校入り口があり、その少し先に「泉入口」バス停がある。

この泉地区の東側の谷に夜刀神(やとのかみ)を祀る神社と椎井という湧き水池がある。
この泉地区辺りがこの「曾尼駅」があったと考えられる場所だ。
地元の研究会などで駅跡の看板を建てているらしいが、まだ場所は特定できていない。

一方「曾禰駅」も分っていないが、土浦市下高津辺りではないかというのが多くの人の考えのようだ。

またこの鹿島道といわれるもう一つの駅家が潮来にあるのだが、こちらは潮来市街地に近い「長勝寺」の境内に駅跡の碑がたてられている。
もっともこの駅跡もあまり根拠はなさそうで、私はもう少し山側にあったと思っている。
またこの駅家は西暦812年頃に廃止されたのは確からしい(日本後紀)ので、この板来駅以外にも、「曾尼」駅も廃止されたと考えてもよさそうだ。
鹿島道は恐らく奈良朝も陸路より船が使われたのだろう。

また地図で東京湾を渡って上総国(国府:市原)に入った後、下総国の国府(市川)を経由せずに常陸国へ向かっていたルートがあったようだ。
これを上の地図に書き込んだが、上総国府-鳥取(ととり)-山方-荒海(あらみ)ときて、香取の海を船で常陸国へ渡ったようだ。

この地図の「鳥取」「山方」「荒海」「真敷(ましき)」の4つの駅家は西暦805年に廃止となったという。

古東海道03

上の写真は石岡から高浜へ向かう高浜街道脇から見つかった古道の跡(中津川古道)であるが、現在の舟塚山古墳のすぐ近くだ。
この古道跡については諸説あるが、鹿島への連絡路の一部ではないかとの説が強いが、これだけの広い、側溝もある古代官道が東海道ではないわき道である鹿島路に造ったのか私は疑問に思っている。
玉里地区に「五万掘」という古い遺跡のある地区名があるが、これも街道跡によく見られる地名である事を考えると、この中津川古道は石岡-玉里-小川 (-玉造) まで広い道が出来ており、そこから船で「荒海」駅へ向かったということも考えに入れておいた方が良いのではないかと思う。

その他、五万掘地名については、石岡から東山道への連絡古道が造られ、小美玉市の五万掘地区から古道跡が見つかっている。
しかし石岡にも五万掘地名はあった。廃藩置県で石岡の鹿の子地区に江戸の藩士たちの住宅を造ったが、ここ敷地となった場所にあった「五万堀」は埋め立てられて地名は消えた。







古東海道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2022/04/20 12:42
コメント
No title
この地図をみていると、東京湾は巨大な湖のようですね。市原から成田に抜ける陸路は面白いです。台地の原生林もしくは低木の生えた原を抜ける道だったのでしょう。谷津ぞいに繋がっていたかも。しかし石岡までの道は、重い荷物を運ぶなら、海路を充分に活用した方が便利なんでしょうが、印旛沼は使われていないようですね。
コメント有難うございます。
kincyanさん またのコメントうれしいです。
この市原から荒海までの古代の駅家のルートはかなりアバウトです。
なにしろ平安時代初期に廃止されたようなので名前から場所を推論するしかなさそうです。

ただ、古代街道は結構台地上につくられ、水辺にはそこから降りる路を切り開いたりしたと思います。
ここに載せた地図は全くざっくりと線を引いたので個々に見ていかなければいけないでしょう。
ただこのあたりは全く不案内で想像ができません。

松虫姫伝説もあるので印旛沼を渡ったということは当然あり得ると思っています。
源氏物語で常陸介が牛車で出かけたのももうこのあたりは通っていないのでしょうね。

常陸国風土記に景行天皇が息子ヤマトタケルが通った道を通って辿って常陸国にやってきますが、
その通った路は何処なのか?
鳥見の丘、栄町、浮島・・・霞の里・・・ いろいろに想像してしまいます。


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