高須の一本松
ゴールデンウィークの中日の平日だけれど、毎日が自由にも成れる日々をおくっていると、出かけるのも億劫になる。
何処にっても人が多くて、こんな中には入っていけなくなった。
そんなわけで、この休みは自作の本や「ふるさと風の会報」などを少し印刷しておこうと机やプリンタにはりついている。
ふるさと風の会も結成してもう直ぐ16年になる。
今までの会報の総ページ数ももうちょっとで4000ページくらいになる。
よく休まずに続けてきたものだと思う。
ただ、会員も高齢化が進み徐々に新鮮味も薄れ、活動を見直す時期なのかもしれない。
まあ、あまり考えても良いアイデアも浮かばないので、今は少しずつでも前に進むしかないか・・・・・・。
さて、連休前に訪れたところを1箇所紹介しましょう。
霞ヶ浦大橋に近い玉造側に「高須の一本松」という場所があるので、数日前に立ち寄ってきました。
名前は前から知っていましたが、特別に見るほどのものではないと今まで避けて来ました。
先日書いた「曾尼(そね)」という古代の駅家(うまや)を調べていて、少し気になったので近くに行ったついでに立ち寄る事にしました。

場所は霞ヶ浦大橋の玉造側入口にある「道の駅」の反対側の湖岸沿いにあります。
玉造の町側から大橋手前の信号を左に入っていくと高須崎公園があり、その少し先にあります。
「茨城百景 高須ノ一本松」という碑が立っています。

この松は、下の写真の案内板に書かれている所によると、「水戸光圀(義公:黄門)及び斉昭(烈公)ゆかりの銘木だそうで、昭和27年に茨城県の特別天然記念物に指定されたが、松くい虫にやられて昭和55年に指定が解除された。」となっています。
今は前にあった松の実生から2代目を育成しているとか。

元の木は樹齢は900年ほどあったとされ、前九年の役のときに、源頼義、義家の親子が戦勝祈願で、霞ヶ浦を船で鹿島神宮へ向かう途中に暴風のため、この高須で船を停めて、風のおさまるのを待った。その時に「曾尼(そね)」の長者が親子に炊き出しなどをして接待したという。
その際に、波間から1本の松が漂ってきて、義家(八幡太郎)が歌を詠んだ。
『ちはやぶる鹿島の神の授け松 なほ万代も君は栄えん』
また光圀も江戸時代にここに来て、
『高須崎波にゆらるる一つ松 さぞや山路の恋しかるらん』
と詠んだ。(上の看板)
まあ何処まで信じてよいか分らないが、源頼義、義家の親子は北条の多気氏(平氏)を訪れている。
かなり年もいっていた源頼義は多気(平致幹)の娘と一夜をともにして女子をもうけていたという話があり、この女子がその後に奥州の藤原真衡の妻となった事から、後三年の役は始まったとする解釈もあるのですから、まあ不思議ですね。
ただ、この説明では「曾尼(そね)の長者」と出てくるのも気になりますね。
常陸国風土記では曾尼はこの地に住んでいた佐伯の「曽尼びこ」から地名になったといいますから。

すぐ近くに霞ヶ浦の堤防があります。
奥に見えるのはかすみがうら市出島で、右側に玉造とを結ぶ「霞ヶ浦大橋」があります。

またここには舟溜り場のモータープールがあります。
出島の先端沖の水域は流れが少し急で土浦入り側からの流れと高浜入り側からの流れの合流点のため「三つ叉沖」と呼ばれています。
でも古代の東海道も波さえ穏やかならば、稲敷方面からこちら側まで船で渡ってきていたとしても不思議ではありません。
まあ、でもここから陸路で国府(石岡)を目指すより、船で高浜まで行ったほうが楽そうですよね。
何処にっても人が多くて、こんな中には入っていけなくなった。
そんなわけで、この休みは自作の本や「ふるさと風の会報」などを少し印刷しておこうと机やプリンタにはりついている。
ふるさと風の会も結成してもう直ぐ16年になる。
今までの会報の総ページ数ももうちょっとで4000ページくらいになる。
よく休まずに続けてきたものだと思う。
ただ、会員も高齢化が進み徐々に新鮮味も薄れ、活動を見直す時期なのかもしれない。
まあ、あまり考えても良いアイデアも浮かばないので、今は少しずつでも前に進むしかないか・・・・・・。
さて、連休前に訪れたところを1箇所紹介しましょう。
霞ヶ浦大橋に近い玉造側に「高須の一本松」という場所があるので、数日前に立ち寄ってきました。
名前は前から知っていましたが、特別に見るほどのものではないと今まで避けて来ました。
先日書いた「曾尼(そね)」という古代の駅家(うまや)を調べていて、少し気になったので近くに行ったついでに立ち寄る事にしました。

場所は霞ヶ浦大橋の玉造側入口にある「道の駅」の反対側の湖岸沿いにあります。
玉造の町側から大橋手前の信号を左に入っていくと高須崎公園があり、その少し先にあります。
「茨城百景 高須ノ一本松」という碑が立っています。

この松は、下の写真の案内板に書かれている所によると、「水戸光圀(義公:黄門)及び斉昭(烈公)ゆかりの銘木だそうで、昭和27年に茨城県の特別天然記念物に指定されたが、松くい虫にやられて昭和55年に指定が解除された。」となっています。
今は前にあった松の実生から2代目を育成しているとか。

元の木は樹齢は900年ほどあったとされ、前九年の役のときに、源頼義、義家の親子が戦勝祈願で、霞ヶ浦を船で鹿島神宮へ向かう途中に暴風のため、この高須で船を停めて、風のおさまるのを待った。その時に「曾尼(そね)」の長者が親子に炊き出しなどをして接待したという。
その際に、波間から1本の松が漂ってきて、義家(八幡太郎)が歌を詠んだ。
『ちはやぶる鹿島の神の授け松 なほ万代も君は栄えん』
また光圀も江戸時代にここに来て、
『高須崎波にゆらるる一つ松 さぞや山路の恋しかるらん』
と詠んだ。(上の看板)
まあ何処まで信じてよいか分らないが、源頼義、義家の親子は北条の多気氏(平氏)を訪れている。
かなり年もいっていた源頼義は多気(平致幹)の娘と一夜をともにして女子をもうけていたという話があり、この女子がその後に奥州の藤原真衡の妻となった事から、後三年の役は始まったとする解釈もあるのですから、まあ不思議ですね。
ただ、この説明では「曾尼(そね)の長者」と出てくるのも気になりますね。
常陸国風土記では曾尼はこの地に住んでいた佐伯の「曽尼びこ」から地名になったといいますから。

すぐ近くに霞ヶ浦の堤防があります。
奥に見えるのはかすみがうら市出島で、右側に玉造とを結ぶ「霞ヶ浦大橋」があります。

またここには舟溜り場のモータープールがあります。
出島の先端沖の水域は流れが少し急で土浦入り側からの流れと高浜入り側からの流れの合流点のため「三つ叉沖」と呼ばれています。
でも古代の東海道も波さえ穏やかならば、稲敷方面からこちら側まで船で渡ってきていたとしても不思議ではありません。
まあ、でもここから陸路で国府(石岡)を目指すより、船で高浜まで行ったほうが楽そうですよね。
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