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常陸国<倭名類聚抄>

 すっかりこのブログも更新から遠ざかってしまいました。
昔は毎日更新していたのに・・・・・ 
本作りや講演の資料造りなどを優先して、まあ言い訳はそれくらいで、少し反省ですね。

さて、資料つくりなどをしていて、その中で少し記録にとどめておかなければいけないと思い、今回記事としてみました。

平安時代の西暦930年代頃に編纂されたとされる「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」という昔の辞書がある。
これは十巻ものと二十巻物が存在するらしいが、その二十巻物の中に当時の「国・郡・郷」の名前が書かれていて、当時の古代律令制における地名の研究の基資料といわれている。

今ではパソコンで国会図書館のアーカイブを検索してみる事ができて大変重宝している。
私は必要なところを取り出して、自分専用の書籍に製本して手元の置いている。

今日は、あまり見たことがない方のために、この中から常陸国を取り上げてみたい。

常陸国

上の図は2箇所を常陸国に関係するところだけを抜粋したものである。
右側は「東海国」とあるが、都(五畿内)から地方に整備された七道の中の「(古)東海道」に属している国名が書かれている。

伊賀・伊勢・志摩・尾張・参河(三河)・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸
となっており、終点が「常陸国」である。

各国名の下には万葉仮名で読みが書かれている。
たとえば、参河は「三加波」、遠江は「止保太阿不三」で、常陸は「比太知」=ヒタチ である。

また、この中の武蔵国は律令制の最初は東山道に属していたが、荷物運搬にも不便となり西暦771年にこちらの東海道に編入されたものだ。

また、図の左半分は、常陸国の石高、都までの行程や、中の郡名が書かれている。

石高は田四萬九十二町六段百十二歩・・・などとあり、上総の二萬二千八百四十六町、下総の二萬六千四百三十二町などと比べても圧倒的に大きな田を持つ国であったことが分る。
行程は上三十日、下十五日と都までの行き帰りの日数が倍半分違うが、これは恐らく上りは荷物を運ぶためであり、下りは荷物がないためだろうと思う。
この行程日数も、上総国(市原)、下総国(市川)共に同じ日数がかかれており、同じ古東海道を通っていても必ずしも途中の国府に立ち寄ったりはしていないのだろうと思われます。

ただこの十世紀始めの東海道が、東京湾を渡るルートであったかといえば、武蔵国が東海道に編入されて暫く建った西暦805~810年頃には東京湾を舟で渡るルートは恐らく廃止されているようなので、何故常陸国(石岡)からと下総(市川)から都までの日数が同じなのかは不明である。

またこのところで特に注目すべきは「茨城(郡)」の読み方だ。

茨城=「牟波良岐」とあり、ここに常陸国の国府があったことが記されている。

牟波良岐=ムバラキ と読むのが一般的だろう。 イバラキとは読めない。
当時はムバラキと発音されていたと考えて良いだろう。
学者の先生はこれはマチガイではないかなどと言われる方もあるようだが、間違いとは思われない。

茨(イバラ)の生茂った原などを、古語では「おどろ=棘/荊棘」などと言っていたというので「おどろ原」⇒小原などが茨城地名の元なのかも知れない。
笠間市小原近くに大昔の茨城郡の郡の中心があったという説があるからである。
(茨城郡の郡衙は、途中でその地が茨城郡から那珂郡に編入される事になり、その後、現在の石岡の地に移った事が風土記にも記されている)
ハラキというのも「切り開く」という言葉を意味すると考えればいいのではないだろうか。

まあ考えるのは自由であるから、今回は倭名抄の内容を紹介したくなりました。





茨城の県名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/05/22 15:48
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