萬福寺(行方市)
このブログも地域に眠る歴史などと、もうかなりの数の寺などを紹介してきたので、同じところも何度か登場したりする。
今回の萬福寺も以前に紹介している。
ただ、今回はこの裏山側から回ってのアクセスだから少し感じ方も違う。
昨日紹介した「羽生館跡」の場所はこの萬福寺のある山とは地続きなので、何か関係しているのだろうと思う。
羽生館跡の看板から山を巻くように民家との間の細い道を車で通り抜けて、この寺の山門に出た。

藁ぶき屋根の山門は、仁王門で仁王像が置かれていた。
扁額は「雷電山」という山号が書かれていた。

山門をくぐると、上まで70~80段くらいの石の急な階段がある。
この石段もかなり急で、凸凹していて登りにくい。
年寄りには少し怖い感じだ。
コロナ禍での体力の衰えで、少し足元が気になる。

登り切った正面に立派な「阿弥陀堂」がある。
この中に県指定文化財の阿弥陀三尊像が安置されている。

この阿弥陀堂は江戸時代の書物で、1186年に建立されたされているようだがイマイチはっきりしない。

源平合戦の時に清盛の長男・平重盛はすでに亡くなっており、部下の平貞能が重盛の遺骨とこの阿弥陀如来三尊を持ってここに安置したとされる。
これは城里町の小松寺に伝わる話と同じ。
小松寺には墓もある。
さて、この2つの寺の関係は?
この寺もご住職が最近「橘郷」についてHPに書かれている。
もう少しじっくり調べてみないとなかなか理解できない。
橘郷は鹿島神宮の領地であり、周りの地域と少し歴史的な見方が違っていそうだ。
羽生・八木蒔・沖洲など江戸時代も水戸藩と麻生藩に挟まれながらの独立していたのだろう。
麻生藩にいた江戸の「新庄氏」の直轄領でもあったようだが・・・・
今回の萬福寺も以前に紹介している。
ただ、今回はこの裏山側から回ってのアクセスだから少し感じ方も違う。
昨日紹介した「羽生館跡」の場所はこの萬福寺のある山とは地続きなので、何か関係しているのだろうと思う。
羽生館跡の看板から山を巻くように民家との間の細い道を車で通り抜けて、この寺の山門に出た。

藁ぶき屋根の山門は、仁王門で仁王像が置かれていた。
扁額は「雷電山」という山号が書かれていた。

山門をくぐると、上まで70~80段くらいの石の急な階段がある。
この石段もかなり急で、凸凹していて登りにくい。
年寄りには少し怖い感じだ。
コロナ禍での体力の衰えで、少し足元が気になる。

登り切った正面に立派な「阿弥陀堂」がある。
この中に県指定文化財の阿弥陀三尊像が安置されている。

この阿弥陀堂は江戸時代の書物で、1186年に建立されたされているようだがイマイチはっきりしない。

源平合戦の時に清盛の長男・平重盛はすでに亡くなっており、部下の平貞能が重盛の遺骨とこの阿弥陀如来三尊を持ってここに安置したとされる。
これは城里町の小松寺に伝わる話と同じ。
小松寺には墓もある。
さて、この2つの寺の関係は?
この寺もご住職が最近「橘郷」についてHPに書かれている。
もう少しじっくり調べてみないとなかなか理解できない。
橘郷は鹿島神宮の領地であり、周りの地域と少し歴史的な見方が違っていそうだ。
羽生・八木蒔・沖洲など江戸時代も水戸藩と麻生藩に挟まれながらの独立していたのだろう。
麻生藩にいた江戸の「新庄氏」の直轄領でもあったようだが・・・・
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