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井上長者屋敷

 昨日はまた朝から暑い中、車(軽)を運転して銚子まで行って来ました。
朝9時頃に家を出ましたが、もう既に気温はかなり高く、出かけにアクエリアス1本を持って、信号で止まるたびに一飲みしながら・・・・
途中で知り合いの方にたのまれていた資料を届け少し立ち話し。
少し外でいるだけで汗も噴出します。
そんな中でしたので、その方より冷たいペットボトル2本もいただき、銚子につくころには、持ってきたボトルと頂いたボトル1本がすでに空となりました。

昨日ブログで井上神社のことを書いていましたので、その方からその話題から「井上長者」の話を伺ったのですが、私は良く知りませんでした。
そこで早速調べてみると結構面白いですね。

高須の一本松の話、西蓮寺の常行三昧会(じょうこうざんまいえ)の謂れ話、常陸国風土記に書かれていることなどが渦を巻いたように頭の中を駆け巡ります。

少し整理してみましょう。

1)常陸国風土記の行方郡の記述(口訳・常陸国風土記より)

 昔、倭武の天皇が、天の下を巡幸され、霞ケ浦より北を言向けられたとき、この国を過ぎ、槻野の清泉いづみに出たとき、清水で手を清め、玉をもって井戸をお褒めになった。これが玉の清井といはれ、今も行方の里にある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)
 郡より西北に向ふと提賀(てが)の里がある。昔、この地に住んでゐた手鹿(てが)といふ名の佐伯を偲んで名付けられた。里の北に香島の神を分祀した社がある。周囲の山や野は、土が肥え、栗、竹、茅などが多く繁ってゐる。提賀の里より北に、曾尼(そね)の村がある。やはり昔この地に住んでゐた「そねびこと」いふ佐伯の名から名付けられた。今は駅家(うまや)が置かれ、曾尼の駅と呼ばれる。

2) 西蓮寺常行三昧会:
 前に書いた記事 その① ⇒ こちら
 前に書いた記事 その② ⇒  こちら
 前に書いた記事 その③ ⇒  こちら

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この常行堂で行われている三昧会が行われるようになった事については、あるお話がのこっており、それは上記の③で書いているが、
「それは、源氏の元となる八幡太郎義家が後三年の役(1083~1087)の蝦夷征伐時に鹿島神宮に戦勝を祈願するためにこの地を訪れます。
そしてこの土地の長者(唐ケ崎長者)の家で食事をふるまってほしいと頼んだそうだ。しかし、口に合うようなものが用意できないと丁重にお断りした所、粗末なものでもよいのでといわれ、出されたのがたいそう豪華な食事だったそうだ。
こんな金持ちの長者を生かしておいたら大変だと義家は一家を皆殺しにしてしまった。
ところが娘が一人だけ生き残り、この西蓮寺に預けられ、この娘が両親の供養のために、比叡山から常行三昧会をこの寺に移して始まったというのである。」
というのである。
所謂長者伝説で、各地に似た話がいっぱいある。
ここでは「唐ケ崎長者」とでてくるが、このあたりで「唐ケ崎」といえば、鉾田の西側にある地名を思い浮かべるが、少し距離が離れている。しかし、行方市の文化財マップにはこの近くに「唐ヶ崎遺跡」の記載がある。しかし時代は中世だ。
まあ長者名については触れていないものや、他の名前もあり特定できない。
また時代によっても名前が変化したとしても不思議ではない。

3)高須の一本松の話:
 前に書いた記事 ⇒ こちら

 ここでの長者話は、「前九年の役のときに、源頼義、義家の親子が戦勝祈願で、霞ヶ浦を船で鹿島神宮へ向かう途中に暴風のため、この高須で船を停めて、風のおさまるのを待った。その時に「曾尼(そね)」の長者が親子に炊き出しなどをして接待したという。
その際に、波間から1本の松が漂ってきて、それを義家(八幡太郎)が拾って、歌を詠んだ。
 『ちはやぶる鹿島の神の授け松 なほ万代も君は栄えん』
ここには「曾尼(そね)の長者」と出てくる。常陸国風土記の「曽尼びこ」が長者になったのでしょうか。

4)井上長者館跡:Wiki/より

 「遺跡は、1962年(昭和37年)にこの台地の地籍調査のために空撮された航空写真によって発見された。写真には、茨城県道50号水戸神栖線西側にある畑の地表面に、クロップマークないしソイルマークらしき南北約100メートル・東西約100メートルの二重正方形のラインが、主軸を北東側にやや傾けて、はっきりと写っていた。これは現在の遺跡調査における航空写真による遺跡判読の好例としても引用されている。
この付近は「長者郭」という小字地名が残っており、古代瓦が表採されることで知られていた。また高野家に伝わる史料『高野助右衛門家文書』の中に「金塚長者郭の図」と呼ばれる製作年代不明の絵図面があり、これに描かれた正方形の二重堀を持つ居館跡の平面図が、発見遺構と酷似していたことから話題となった。」
「1989年(平成元年)12月14日から1990年(平成2年)1月27日にかけて、玉造町遺跡調査会(玉造町教育委員会)が遺構規模の把握を目的としたトレンチ調査を行った。航空写真に基づいて、東西南北すべての二重ラインが見える位置に、ラインに直交する向きのトレンチ(試掘坑)を入れた結果、断面が逆台形をした幅4メートル前後の二重の空堀が検出され、奈良・平安時代の須恵器や瓦などの遺物が覆土中から検出された。調査結果から復元される外堀の規模は、東西120.5メートル、南北119.72メートルを測るほぼ正方形のプランで、主軸方向は北東に18度傾いていることが判明した。
・・・・・・・・・
調査報告では出土遺物の種類や年代から、遺構の年代を8世紀から10世紀頃の古代と捉えているが、中世居館と記載するものもある。」
と記載がある。

(本調査報告書は ⇒ こちら からダウンロードして読むことが出来る。)

地名から「井上長者館」ではあるが、「金塚長者郭」とも解釈できる。

この屋敷の代表地番は「茨城県行方郡玉造町大字井上2439-8ほか」となっており、地図でみてみよう

井上長者館

この図は行方市教育委員会生涯学習課が平成25年に作成した「行方市文化財マップ」の一部だ。
本パンフレットを先日友人からいただき感謝。

ここで、井上長者屋敷は国道50号線の直ぐ脇であり、国道沿いに「西蓮寺参道入口」と書かれた案内板が出ていたあたりだろうか。
大きさはほぼ100m四方の大きさで北より東側に少し傾いた方向に建っていたようだ。
前述の唐ヶ崎遺跡の南側である。

さて1)~4)の記載で出てきた長者は同一なのであろうか?
 曾尼(そね)長者
 唐ケ崎長者
 井上長者
 金塚長者

この唐ケ崎長者については茨城の民話アーカイブに私が書いた記事を載せていますので参考にしてみてください。
    ⇒ こちら

こうしていろいろ考えていくのは楽しいし、考えているうちにハッとひらめく事もある。

まあ、分らないものはしばらくそのままにしておこう。






小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/06/30 10:08
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