37年前 日航機墜落
8月12日のニュースで、日航ジャンボ機の墜落事故から37年という記事が目に入ってきた。
もうあれから37年も経つというのだ。
その事故当時の37年前に大卒で会社に入った人が来年60歳定年を迎えるのだという。
坂本九さんがその飛行機に乗っていて亡くなり、御巣鷹山の山中で朝から救出が始まり4人の方が助かったが多くの乗客・乗員は助からなかった。
テレビから映されたその惨状は眼を覆いたくなるものであった。
私にとってもこの事故は特に記憶に残っているものである。
当時(37年前)、私は勤めていた会社の新聞編集委員をしていた。
これは、それぞれの部署から1人ずつ編集員が選ばれ、持ち回りで会社の新聞のコラム欄の執筆が任された。
私はたまたまこの墜落事故のあった時に、このコラム記事(新聞で言えば天声人語のようなもの)の順番が廻ってきたのだ。
これは、記事のネタにせねばならないと、文学的な文章などとはほとんど縁が無かったが、何とか書き上げて9月始めの締め切りに間に合わせた。
このとき、私は「現在、人生の中間点に差し掛かった筆者であるが・・・・」という言葉を使った事を覚えている。
事故原因はいろいろと取りざたされていたが、「圧力隔壁の疲労破壊」というのが大筋であった。
手元にその時の記事は残っていないが、この「疲労破壊と検査ミスなどを仕事の戒めとして自分たちの仕事を見直したい」などと戒めの記事としてまとめた覚えがある。
37年前の私は37歳。 今その倍の年令になった。
そう人生の中間点の倍・・・・ ということは、もう終末期か。
父親の亡くなった年齢を越したが、まだまだやりたいこともある。
もう少し晩年も楽しみたいものだ。
37年前はほとんど仕事以外での文章などは書いていない。
しかし、幾つかのエッセイーなども読んでいたので、このときがそんな記事を書いた最初なのだと思う。
書いた記事は名前は出していなかったと思うが、意外に評判がよく、今のブログを書き始めるときにも、すこし自信になったのかもしれない。
もうあれから37年も経つというのだ。
その事故当時の37年前に大卒で会社に入った人が来年60歳定年を迎えるのだという。
坂本九さんがその飛行機に乗っていて亡くなり、御巣鷹山の山中で朝から救出が始まり4人の方が助かったが多くの乗客・乗員は助からなかった。
テレビから映されたその惨状は眼を覆いたくなるものであった。
私にとってもこの事故は特に記憶に残っているものである。
当時(37年前)、私は勤めていた会社の新聞編集委員をしていた。
これは、それぞれの部署から1人ずつ編集員が選ばれ、持ち回りで会社の新聞のコラム欄の執筆が任された。
私はたまたまこの墜落事故のあった時に、このコラム記事(新聞で言えば天声人語のようなもの)の順番が廻ってきたのだ。
これは、記事のネタにせねばならないと、文学的な文章などとはほとんど縁が無かったが、何とか書き上げて9月始めの締め切りに間に合わせた。
このとき、私は「現在、人生の中間点に差し掛かった筆者であるが・・・・」という言葉を使った事を覚えている。
事故原因はいろいろと取りざたされていたが、「圧力隔壁の疲労破壊」というのが大筋であった。
手元にその時の記事は残っていないが、この「疲労破壊と検査ミスなどを仕事の戒めとして自分たちの仕事を見直したい」などと戒めの記事としてまとめた覚えがある。
37年前の私は37歳。 今その倍の年令になった。
そう人生の中間点の倍・・・・ ということは、もう終末期か。
父親の亡くなった年齢を越したが、まだまだやりたいこともある。
もう少し晩年も楽しみたいものだ。
37年前はほとんど仕事以外での文章などは書いていない。
しかし、幾つかのエッセイーなども読んでいたので、このときがそんな記事を書いた最初なのだと思う。
書いた記事は名前は出していなかったと思うが、意外に評判がよく、今のブログを書き始めるときにも、すこし自信になったのかもしれない。
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